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ロシア文化


中世ロシア興亡史講義 ~歴代君主の素顔とその真実~ 862-1598
Лекции по истории средневековой Руси

第47回 イジャスラフ二世vs. ユーリー

武装するユーリー・ドルゴルーキー

 イジャスラフ二世は慣習にしたがって、公国の中で最も重要な都市に息子たちを差し向けた――ムスチスラフはペレヤスラヴリに、ヤロスラフはノヴゴロドに。だが、イジャスラフ二世は心休まらなかった。というのも、彼はキエフの人々から招致されて大公位に就いたのであり、厳密な意味では、一族の最年長者ではなかったからである。彼の父親の弟たち、すなわち叔父たちがまだ健在であり、その中にユーリー・ドルゴルーキーもいた。

 しかしながら、イジャスラフ二世の強さを最初に知ったのは、故フセヴォロド二世とイーゴリの実の弟であった、スヴャトスラフであった。スヴャトスラフは、親族であったポロヴェツ人と同盟を組み、尚その上に、キエフ遠征にユーリー・ドルゴルーキーを招いた。1147年のイジャスラフ二世の軍隊との最初の衝突は、スヴャトスラフやユーリーの敗北に終わった。

 スヴャトスラフはしばらくすると、スモレンスクの地に注意を向け、一方、ユーリーはイジャスラフ二世の息子が統治していたノヴゴロドの一部を首尾よく占領し始めた。これは大公に対するあからさまな挑戦的態度であり、イジャスラフ二世には、一族の年長制の権利にしたがってユーリーに権力を自発的に譲るか、あるいは彼に壊滅的な敗北を負わせるか、そのどちらかの選択肢しかなかった。

 イジャスラフ二世は大遠征の準備を始め、スモレンスクとノヴゴロドの軍隊のもとへ赴いた。彼はすぐには戦闘行為を開始せず、スーズダリのユーリーのもとへ和平の提案を携えた代表団を派遣した。これにユーリーは答えなかったばかりでなく、イジャスラフ二世の使者たちを捕らえてしまった。1149年2月、キエフとノヴゴロド、そしてスモレンスクの連合軍はスーズダリへ進軍した。おそらく、イジャスラフ二世は一気に片をつけることを期待していたのだろう。しかし、戦闘は長引き、3月の末には春の雪解けが始まったせいで退却せねばならなくなった。イジャスラフ二世は、ヤロスラフリを含む幾つかの町と約七千人の捕虜を得ることができただけであった。

 夏の初めにはすでに、ユーリー・ドルゴルーキーが報復遠征に向かっているという報告が、チェルニーゴフから届いた。8月の中旬、ユーリーの先頭部隊は、イジャスラフ二世があらかじめ守備隊を配置していたペレヤスラヴリを包囲し始めたが、しばらくしてイジャスラフ二世自身がキエフ従士団と共にそこへ到着した。力のバランスは明らかにユーリーに不利となってしまった。ユーリーは退却し、ペレヤスラヴリと引き換えに和平を申し出た。イジャスラフ二世は相手よりも軍事力が明らかに優勢であると考え、その申し出を拒絶し、8月23日に会戦が始まった。腕利きの軍司令官であったユーリーはどんどん優勢に回り、一方、イジャスラフ二世は、軍隊の残党を見捨てて敗走した。8月24日、ユーリーはペレヤスラヴリに入り、その三日後にはキエフへ入城した。

 次回は「イジャスラフvs.ユーリー」。乞うご期待!!

(大山・川西)



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