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ロシア文化


中世ロシア興亡史講義 ~歴代君主の素顔とその真実~ 862-1598
Лекции по истории средневековой Руси

第46回 イジャスラフ二世(統治1146-1154)の歩み

イジャスラフ二世

 父親である大公ムスチスラフの治世中、イジャスラフは1127年からポロツクを治めていた。ムスチスラフの死後、大公位を継いだ交代したヤロポルク二世は、1132年に甥のイジャスラフにペレヤスラヴリを譲渡した。1132年から1134年に渡った領土の再分割の過程で、イジャスラフは、彼の叔父にあたるユーリーがペレヤスラヴリを占領したために、そこを放棄するはめになった。ヤロポルク二世は、甥が以前治めていたポロツク内にあるミンスクを彼のために残し、さらに1133年に、ピンスクとトゥーロフをイジャスラフに統治させるために送り出した。翌1134年、イジャスラフの叔父にあたるヴャチェスラフが彼をトゥーロフから追い出すと、その同じ年に大公ヤロポルク二世は、イジャスラフにウラジーミル-ヴォルィンスキーを与えた。1134年から35年の冬にかけて、イジャスラフは弟のスヴャトポルクとチェルニーゴフ公のフセヴォロド二世と協力してペレヤスラヴリ公国を破壊し、1135年にはキエフ従士団を打ち負かした。

 ユーリーはペレヤスラヴリを手放し、スーズダリへ退却せざるを得なかった。大公になったフセヴォロド二世は、モノマフの子らとの戦いでイジャスラフから援助を受けたお礼に、彼にペレヤスラヴリを返した。

 キエフ大公位についたイジャスラフは、イジャスラフ二世となり、最初はさしたる困難に出会うこともなかった。勇敢で活動的な新しい大公は民会へしばしば参加し、土地整備に関するさまざまな考えを提案し、キエフの人々のためにご馳走や宴をふるまった。大公は庶民を迫害する者を個人的な敵とみなし、それゆえに民衆は心からの愛でもって彼に応えた。当初、イジャスラフに対して合同遠征をたくらんでいたチェルニーゴフ諸公は、キエフで人気を勝ち取ることができず、イジャスラフ二世とは戦わずに話合いの席についた方がより得策だということをいち早く理解した。それにもかかわらず、彼らはノヴゴロドやスモレンスク、スーズダリの地で陰謀を企て、つまらない軍事行動を繰り返した。チェルニーゴフ諸公の行動に憤慨したキエフの人々は、その仕返しに、その時キエフの修道院の一つで生きていた前大公イーゴリを1147年9月に殺害してしまった。イジャスラフ二世はこの時キエフを留守にしており、この暴力沙汰について知ったのは後になってからであった。

 次回は「イジャスラフvs.ユーリー」。乞うご期待!!

(大山・川西)



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