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ロシア文化


中世ロシア興亡史講義 ~歴代君主の素顔とその真実~ 862-1598
Лекции по истории средневековой Руси

第40回 ユーリーとアンドレイの反乱

ユーリー

 モノマフの二番目の妻の息子たち(ユーリー、ロマン、アンドレイ)は、フセヴォロド(前大公ムスチスラフの長男)のペレヤスラヴリ公位就任を妨げることに踏み切った。ユーリーとアンドレイは同盟を結んで従士団を統合し、フセヴォロドがノヴゴロドを発つや否や、ユーリーがすぐに軍隊を引き連れてペレヤスラヴリへ進軍した。フセヴォロドは、ペレヤスラヴリに数時間しか滞在することができなかった。1132年8月15日、ペレヤスラヴリに到着したユーリーの軍隊はフセヴォロドを追放し、町を占領したのである。このことを知った大公ヤロポルク二世は、軍事力を用いることこそしなかったが、一族の最年長者として、ペレヤスラヴリを勝手に占拠したユーリーにそこから立ち去るよう説得した。フセヴォロドはノヴゴロドへ送り返され、ユーリーはペレヤスラヴリの郷のわずかな部分を手に入れることができた。

 こうしてユーリーとアンドレイは、おそらく自分たちも予想していなかった、流血沙汰の内乱への道を開くこととなった。ユーリーやアンドレイ、大公ヤロポルク二世がごく内輪の家族関係を調整している間、チェルニーゴフ公のフセヴォロド(モノマフの従兄弟であるオレーグの息子)は、その好機を逃しはしなかった。キエフ大公位を狙っていた彼は1132年、大公ヤロポルク二世に復讐心を抱くポロヴェツ人と同盟を組んで、キエフを包囲したのである。しかし、迅速に町を占領することはかなわず、長期戦の備えをしていなかったフセヴォロドは、数日後には戦うことなくして撤退することとなった。

 そうするうちに、大公ヤロポルク二世の招致によって、ムスチスラフの別の息子――イジャスラフがポロツクからペレヤスラヴリに到着した。ところが、ポロツクで公として統治するために残ったイジャスラフの弟スヴャトポルクが住民たちによって追放され、彼らは地元の公であるヴァシリコを自分たちの公に据えた。こうしてポロツクは、モノマフ家の権力から永久に脱することになってしまう。

 次回は「領土の再分割とキエフ大公国の弱体化」。乞うご期待!!

(大山・川西)



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