◆第28回 エフプラクシヤとヤンカ
オレーグはフセヴォロドを手こずらせたが、他の甥たちは彼を特に煩わすことはなかった。大公位就任後すぐにフセヴォロドは、前大公の息子ヤロポルクにウラジーミルとトゥーロフとを譲り、一方その弟スヴャトポルクにはノヴゴロドをそのまま統治させた。また、オレーグによってトムタラカニから追放された甥のダヴィドには、大公はドロゴブーシュを与え、自分の長兄ウラジーミルの孫であるヴォロダリたちにはチェルベンスクの町を譲渡した。
大公フセヴォロドは、政治家としての特別な才能に恵まれていたわけではなく、自身の高い地位をやや重荷にすら感じていたようである。諸史料は、フセヴォロドが時として、自らの運命にまったく満足しながらペレヤスラヴリを治めていた頃の幸福で穏やかな時代を、愛惜の念をもって思い出していたことを伝えている。それでも、彼はその統治期間にルーシの地を統一国家として再び結束させることができた。無論、それは息子たちの援助があってのことであり、とりわけエネルギッシュな長男ウラジーミルの存在が大きかった。フセヴォロドはすでに自らの統治期間の初期から、ウラジーミルに重要な国政をゆだねた。
公国内では、国境付近に移住地が設けられ、町の建設が進められた。さらに、教会組織が大きくなり、諸土地に根づいていった。フセヴォロド自身、若い頃から信仰深く、聖職者を大いに尊敬していた。大公となってからは、彼は一層豊かな贈り物を教会に寄進した。ヨーロッパ諸国やビザンチンとキエフとの結びつきは教会を通してより拡張し、より多面的なものとなっていった。この点において、フセヴォロドの二人の娘が大きな役割を果たすこととなった。1089年に神聖ローマ皇帝ハインリヒ四世と再婚したエフプラクシヤは、積極的にヨーロッパの政治問題へ取り組んでいたが、やがて夫のもとを去ってキエフへ戻ってきた。二番目の娘ヤンカは、キエフにある聖アンドレイ教会付属の女子修道院の創立者であり、その修道院長となった。この聖アンドレイ教会というのは、フセヴォロドが1086年に建てたものである。ヤンカは再三コンスタンチノープルを訪れ、フセヴォロドは彼女を通してルーシとビザンチンの教会間の相互関係に少なからぬ影響を及ぼすことができた。
年代記作者は、フセヴォロドが若い時から飲酒や姦通をつつしんだこと、係争問題を公正に解決したこと、偽善的な人々に彼が嫌悪を示したことを指摘している。当時にあって、彼は教養のある人間だった。というのは、彼は書物に精通し、その価値のわかる人として知られ、五つの外国語を自分のものとしていたからである。
晩年、フセヴォロドの身体はひどく衰弱した。代官たちは大公の肉体的衰えを利用して、ポロヴェツ人ほどではなかったとはいえ、住民から搾取するようになり、これに対する人々の訴えはフセヴォロドまで届かなかった。息子のウラジーミルは自分の側近の者と共に、あらゆる問題を取り仕切るようになっていた。キエフの古くからの貴族は問題に取り組むことができず、日々不満が募っていった。
1093年の春、フセヴォロドは逝去した。彼の遺言通り、その遺骸は聖ソフィア聖堂に安置された。
次回は「ヤロスラフ賢公の三人の孫たち」。乞うご期待!!
(大山・川西)
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