◆第22回 ルーシ法典の編纂
ヤロスラフ自身は関与しなかったが、彼の発意で、「ルーシ法典」の名で知られている民事規定集成が作られた。これは911年と944年にルーシとビザンチンの間で結ばれた条約内で触れられている「ルーシの法」に次ぐ、ロシア史上、二番目の法集成である。スラヴ諸部族間の口約束でのきまり事のみが定められている「ルーシの法」とは異なり、「ルーシ法典」は社会的な規則に注意を向け、日常生活における圧制や専横、その他の望ましくない出来事から平民を法的に守った。たとえば、殺人に対する血の復讐は次のように定められていた。「もし、男が男を殺したら、兄弟のために兄弟が、父親のために息子が、息子のために父親か、あるいは息子の義兄弟か、あるいは息子の姉妹が復讐することができる」。加えられた傷やあるいは肉体的損傷、盗みなどに対しても、補償金の額が定められていた。きまりは次のように、些細な事柄にいたるまで検討されていた。「抜かれた口ひげに対しては12グリヴナ(※)、あごひげ一房に対しても同じく」。「断りなく他人の馬に乗った者は、持主に3グリヴナ払うこと」等々。しかし、最も注目すべきことは、ルーシが国家として統一された1036年の後に、これらのきまりが全領土で採用されたという点である。似通った法集成が他の諸国でも用いられていたが、事実上、「ルーシ法典」の本質はヨーロッパ諸国の法典に準じていた。
ヤロスラフは、大公の国庫金から少なからぬ資金を、町々の整備、新たな定住地の建設に当てた。ロス川に沿った南方の国境付近に、見張り用の関所が建てられた。翌年、この人気のない土地に捕われたポーランド人が入植させられ、さらに一年後にはそこで町々の建設が始まった。新たな町がヴォルガ河畔とバルト海沿岸に現れた。ヴォルガ河畔のヤロスラフという町は、近隣のフィン人やチュージ人に対する支配上の拠点として1030年に建てられ、大公の異教的名前から名づけられた。チュージ人の土地にあるユリエフという町は、大公のキリスト教の洗礼名(ユーリー)から名づけられた。ヤロスラフ賢公の治世の晩年には、約四百万の住民を有したルーシの領土は、以前のソ連邦のヨーロッパ部分の領土とほぼ重なっていた。大公という称号の他にヤロスラフは、その当時皇帝と同一視されていたチュルク人の称号である可汗を持っていた。公は首都のことも忘れていなかった。キエフは、ビザンチン帝国の首都コンスタンチノープルを手本としていた。外国人を含めて同時代人たちは、スケールにおいても、宮殿や聖堂の数と絢爛さにおいても、整備においても、キエフは他のヨーロッパの首都にまったくひけを取らなかったこと、パリもキエフに比べれば、地方の一田舎に見える、といったことを書き記している。
次回は「ルーシの大公位継承法」。
乞うご期待!!
※キエフ・ルーシの重量・貨幣単位であったグリヴナは、もともとは金銀などの首飾りのことで、後に銀の一定量を指す単位名となった。その通貨価値には地域差があり、10世紀半ばには、南方のグリヴナは銀163グラムであったが、北方では51グラムでしかなかったという。
(大山・川西)
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