◆第20回 キエフに座したウラジーミルの子、ヤロスラフ(統治1017~1054)
ヤロスラフは、ウラジーミルとポロツクの公女ログネダとの間に生まれた三番目の息子であった。幼い頃、ヤロスラフは足を怪我してびっこになってしまった。
ノヴゴロドに配されたヤロスラフは、毎年当地で集められた3000グリヴナの内、2000グリヴナを貢税としてキエフに送らねばならなかったが、父親が年老いてくるとその送付をすべて中断した。これを受けたウラジーミルは、息子に対する進軍の準備を始めた。
父親の出撃を知ったヤロスラフは、ヴァリャーグ人の部隊に援助を求めた。ところが、やって来たヴァリャーグ人らはノヴゴロドの住民に狼藉を働いた。住民たちも負けずに報復し、多くの無作法者たちを殺した。これを聞いたヤロスラフは激怒し、イリメン湖の岸辺へヴァリャーグ人殺害に加わった人々を呼び寄せた。彼らは、和睦に関する話し合いが行われるのだろうと考えて姿を現したが、公の命令によってヴァリャーグ人の手により皆殺しにされてしまった。
ちょうどこの頃、ヤロスラフの血のつながった妹であるプレドスラヴァが、父親の死と、スヴャトポルクの大公位に対する野心を伝えてきた。この時、ヤロスラフの二人の兄、イジャスラフとヴィシェスラフはすでに世を去っており、彼は一族の中で最年長となっていた。スヴャトポルクはヤロスラフよりおよそ八つ年上だったが、彼はウラジーミル聖公の実の息子ではなく、キエフ公位を要求し得る正式の権利すら持っていなかったのである。
ヤロスラフはスヴャトポルク率いるキエフと交戦するために、ノヴゴロドの住民の前で自分とヴァリャーグ人たちの罪を認め、彼らに援助を請うしかなかった。ノヴゴロドの住民たちにしても、それは悪い話ではなかった。というのは、自分たちこそがノヴゴロドの主人だとみなしていたキエフ人の傲慢さに、彼らは傷つけられてきたからである。ヤロスラフに味方したノヴゴロド人の目算は間違っていなかった―その後ヤロスラフは、完全な財政的自主性に関する証書を特典として彼らに与え、褒美として気前良くお金を付与することになる。しかし、政治的な優位はキエフにとどまった。ノヴゴロドの公は大公によって任命され、民会では選出されなかった。
その後、ヤロスラフが第一になしたことは、スヴャトポルクが潜むポーランドと対決するために、ドイツ皇帝ハインリヒ二世と同盟を結ぶことだった。しばらくして、ペチェネグ人の軍隊を率いてキエフを奪還しにスヴャトポルクがやって来、ヤロスラフはそれを撃退した。その翌年の1018年、今度は、スヴャトポルクはポーランドの軍隊を率いてキエフを目指し、境界付近のブグ川畔の戦いでヤロスラフの従士団を粉砕した。ヤロスラフ自身は数人の従者を連れてノヴゴロドへ逃げ戻った。彼はそこからスウェーデンへ行くつもりだったが、ノヴゴロドの人々が彼を引き留めた――スヴャトポルクの側からのノヴゴロドに対する仕返しを彼らは恐れたのである。裕福な住民の寄付金によって雇うことができたヴァリャーグ人の従士団と、ノヴゴロドの義勇軍は、ヤロスラフと共にキエフへ向けて出立した。この頃にはキエフのスヴャトポルクのところからはすでにポーランド軍が去っており、スヴャトポルクはアルタ川岸辺の戦いで完全な敗北を喫してしまう。
1019年、ヤロスラフはキエフに座したのである。
次回は「ヤロスラフの教会整備」。乞うご期待!!
(大山・川西)
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