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ロシア文化


中世ロシア興亡史講義 ~歴代君主の素顔とその真実~ 862-1598
Лекции по истории средневековой Руси

第23回 ルーシの大公位継承法

 自分の父親の例にならい、ヤロスラフ賢公は息子たちと共にルーシの地を統治した。ノヴゴロドは1036年までヤロスラフ自身が治めていたが、その後、そこに長男のウラジーミルを差し向け、彼が1052年に亡くなった後には、次男であるイジャスラフを派遣した。これ以降、キエフに次ぐ二番目に重要な都市であるノヴゴロドの公位には、大公の長男が坐すことが慣わしとなった。やがて、ノヴゴロドの地位をペレヤスラヴリが、さらにはチェルニーゴフが占めていくようになる。その頃、三番目に重要な町であるチェルニーゴフは、三男のスヴャトスラフが治めていた。五男のヴャチェスラフはスモンレンスクの地を、六男のイーゴリはウラジーミル・ヴォルィンスキーを統治した。大公はトムタラカニとムーロムの地をチェルニーゴフ公国に、スーズダリとロストフの地をペレヤスラヴリ公国に併合した。

 ロシア国家の国際的な権威は、並外れて高まっていった。ヨーロッパの多くの王家が、ルーシの大公と親類関係になろうと努めるようになった。ヤロスラフの長男ウラジーミルは、イギリス最後のサクソン王ハロルドの娘と結婚した。弟のヴャチェスラフとイーゴリは、ドイツの王女と結婚した。1032年、ノルウェー王ハーラル三世が、ヤロスラフの末娘エリザヴェータとの結婚式のためにキエフへやって来た。また、ヤロスラフの真ん中の娘アナスターシヤは、後のハンガリー王エンドレ一世と結婚した。1043年には、ポーランド王カジミェシュ一世の妹ゲルトゥルダと、イジャスラフとの結婚がとり行われた。1046年、皇帝コンスタンチン九世モノマフの娘であるビザンチンの皇女アンナと、フセヴォロドの結婚が行われた。1048年、フランス王アンリ一世の使者たちが、ヤロスラフの長女アンナと、自分たちの王の結婚承諾を求める目的でキエフにやって来、1051年の春に彼らの結婚式が行われた。

 間近に迫った死を予感してヤロスラフは、キエフ公位を次男イジャスラフに残し、他の息子たちと甥たちには別の土地を分け与えた、互いの領地に押し入らないことを彼らに厳命して。統一国家は、形式的には幾つかの独立公国へ分けられることとなった。

 ルーシの権力の継承法は、単純で合理的なものであった。大公を含めて公が亡くなった場合、その地位には一族の最年長者が代わってついた。すなわち、父から息子ではなく、兄から弟へ受け継がれた。ただし、自分の父親が治めていた町しか統治する権利はなかった。祖父や曽祖父はこの場合、考慮されなかった。

 ヤロスラフが亡くなった時には、彼の兄弟らが皆すでに没していたため、権力譲渡の点では最も理想的な状態にあった。それは、この継承法が内乱を呼び起こすことのない、唯一の場合であった。その後、一族が枝分かれするにつれて、すべてははるかに複雑になっていったのである。

 1054年2月20日、ヤロスラフは、キエフにて息子フセヴォロドの腕の中で息を引き取った。大公は彼が愛したソフィア聖堂の大理石の聖龕に埋葬され、「我らのツァーリ」という銘が打たれた。

リューリック朝系図


 次回は「キエフの人々とイジャスラフ」。乞うご期待!!

(大山・川西)


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