◆第24回 キエフの人々とイジャスラフ(統治1054‐1073年、1077‐1078年)
ヤロスラフ大公が逝去した後、ヤロスラフの意向と一族の年長制にしたがって、次男イジャスラフがキエフ大公位を継いだ。
ヤロスラフ賢公は息子らと甥たちに土地を分け与えたが、何らかの理由で、孫であるノヴゴロドのロスチスラフ(長男ウラジーミルの息子)と、甥の子で1044年からポロツクを統治していたフセスラフ(ヤロスラフの兄弟であるイジャスラフの孫)とに注意を払わなかった。このフセスラフは、20年後に始まる諸公間の内乱の最も積極的な参加者となる。
1066年、イジャスラフはノヴゴロドに息子ムスチスラフを派遣した。ポロツク公フセスラフはノヴゴロドを襲撃して町を焼き、ムスチスラフに敗走を余儀なくさせた。そのお返しにイジャスラフは一年後、ポロツクのミンスクを攻撃し、ネマン川の岸辺でフセスラフの軍隊を撃破した。翌年、フセスラフをだまして捕え、彼の二人の息子と一緒にキエフの牢へ投獄してしまった。
1067年、ポロヴェツ人がルーシの地へ侵入してくると、ヤロスラフの息子たちはイジャスラフを総指揮官として彼らに向かっていったが、ペレヤスラヴリからほど近いアルタ川の岸辺で壊滅的な敗北をこうむった。軍隊の残兵はキエフに篭城し、キエフの人々は武器を手にすることを望んだが、イジャスラフは彼らに武器を配ることをためらった。というのも、キエフの人々が彼自身や彼の任命した軍と司令官を好いていないことを知っていたからである。――興奮した人々が武器を誰に向けるか分かったものではない!
ところが、大公イジャスラフが町から出てポロヴェツ人を攻撃するのをためらっていると見るや、キエフの民会では牢獄に入っているフセスラフ公のことが思い出され、彼を軍の指官に立てることが提案された。キエフの人々は民衆蜂起に走り、フセスラフを自分たちの公として声明した。こういった感情の波の高まりの中で、キエフの人々はポロヴェツ人を追い払うことに成功し、イジャスラフは家族と側近を連れて逃げ出した。
フセスラフの統治は七ヶ月の間続いた。一方、イジャスラフは妻の親類を頼ってポーランドへ逃げ、王からポーランドの部隊を与えられ、大きな軍隊を編成した。イジャスラフがキエフに向かっていることを知り、フセスラフは従士団と義勇軍を引き連れて応戦するために出て行った。しかし、事は戦闘にまで至らず、怯えたのか、あるいはキエフの人々の裏切りを危惧したのか、フセスラフは軍隊をひそかに見捨て、自らの領地ポロツクへ逃げ帰ってしまった。
従順に開かれたキエフの門を前にして、イジャスラフは急ぎはしなかった。キエフへ入った最初の者は、懲罰部隊を引き連れたイジャスラフの息子ムスチスラフであった。活発に暴動へ加わった約数百名の者が捕えられ、彼らの一部は失明させられ、約70名はイジャスラフによって処刑された。その後、ようやくイジャスラフはキエフへ入場した。数日後、彼の軍隊はポロツクへ発ち、特別な骨折りなしにそこを占領した。フセスラフは側近と共に森の中へ去っていった。ポロツクはイジャスラフの息子ムスチスラフが治めるようになり、ムスチスラフが1069年に突然亡くなった後は、その兄弟のスヴャトポルクが統治した。だが、フセスラフはこの兄弟たちの統治を妨害し、1071年にはスヴャトポルクにポロツクの地を自身に無理やり譲り渡させたのである。
次回は「イジャスラフとローマ教皇」。乞うご期待!!
(大山・川西)
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