◆第25回 イジャスラフとローマ教皇
ルーシの平穏は長くは続かず、諸公間の内乱が多発していた。イジャスラフの弟であるスヴャトスラフとフセヴォロドが、イジャスラフを統治者として認めていなかったことはあり得る。しかし、彼らが兄に歯向かった公の理由は、イジャスラフが、スヴャトスラフとフセヴォロドに相対するために、かつてキエフから追い払ったブリャチスラフの子、フセスラフと同盟を結び、独裁体制を目指しているといった噂であった。1073年、従士団を引き連れたスヴャトスラフとフセヴォロドはキエフへ近づき、イジャスラフは息子と共にポーランドへ逃走した。大公の座にはスヴャトスラフが新たに就いた。
イジャスラフは外国の傭兵を集めるために、キエフからかなりの額の国庫金を持ち出していた。陰険な人間であったポーランド王のボレスワフ二世は、イジャスラフから進物を受け取ったが、軍事的に援助することは拒んだ。そこで彼は神聖ローマ皇帝ハインリヒ四世のもとへ赴いたが、ハインリヒ四世は兄弟間の紛争を解決する際の仲介者となることだけを承諾した。度重なる拒否に遭ったイジャスラフは、尋常ではない行動に走った。正教を奉じる国家の統治者である彼が、ローマ教皇グレゴリウス七世に書簡を送り、援助とひきかえにカトリック教会へ忠誠を誓うことを約束したのである。ローマ教皇はボーランド王にイジャスラフの進物を返還させ、傭兵部隊の編成を手伝わせた。
1076年、ルーシを統治していたスヴャトスラフが突然逝去した。彼に代わったのは、弟フセヴォロドであったが、イジャスラフの傭兵らはこの時すでにキエフへ向かっていた。フセヴォロドは兄と対立するつもりはなく、1077年の夏に自発的に首都を明け渡すと、チェルニーゴフへ身を引いた。
その後、兄弟たちは互いに憎しみ合う運命にこれ以上身を任せようとはせず、重要な諸都市を自分たちの間で穏便に分配した。
大公スヴャトスラフには、成人した二人の息子、オレーグとロマンがいた。しかし、大公家の代表者である彼の息子たちは今や、自らの国でのけ者として取り残された。権力は父親から息子にではなく、一族の年長制に応じて受け継がれ、オレーグとロマンの立場は今やイジャスラフの気まぐれに完全に左右されることとなったのである。
ヤロスラフ賢公の子、ウラジーミルの息子であるロスチスラフは、このような事態を誰よりも冷静に観察していた。スヴャトスラフの年若い息子ロマンは父親の死後、トムタラカニを治めていたロスチスラフのもとに逃れてきた。その兄弟オレーグはチェルニーゴフで暮らしていたが、そこを治めていたのは彼の叔父のフセヴォロドであり、やはりいたたまれなくなった彼は、チェルニーゴフ公国をいつか奪還することを誓って、ロマンに倣ってトムタラカニへ去った。
ポロヴェツ人と同盟を結んだロマンとオレーグは、1078年8月にチェルニーゴフの従士団を打ち破り、都市を占領した。敵対するヤロスラフの息子たちとその甥たちとは、1078年10月、ネジャーチナの畑にて会戦し、ロマンとオレーグの側が敗北を喫した。この時、大公イジャスラフは背中に槍を受け、非業の死を遂げることとなった。
次回は「スヴャトスラフ二世(統治1073‐1076)の生涯」。乞うご期待!!
(大山・川西)
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