特定非営利活動法人 神奈川県日本ユーラシア協会

ロシア文化


中世ロシア興亡史講義 ~歴代君主の素顔とその真実~ 862-1598
Лекции по истории средневековой Руси

第27回 フセヴォロド(統治1078‐1093)と甥たちとの戦い

フセヴォロド

 ヤロスラフ賢公の愛息であった四男フセヴォロドは、1054年からペレヤスラヴリを統治した。この時彼はすでに、ビザンチン皇帝コンスタンチン九世モノマフの娘である皇女アンナと結婚していた。この結婚はビザンチンとルーシの間の平和条約を親族の絆で固めるためのものであり、1046年に行われた。1053年、アンナは一人息子ウラジーミル・モノマフを生んだが、1067年に死去した。その後、フセヴォロドの二番目の妻となったのはポロヴェツの公女で、彼女は夫に息子ロスチスラフ(1069年生)と娘エフプラクシヤ、ヤンカ、エカテリーナを生んだ。

 1067年、フセヴォロドは兄たちと共にポロヴェツ人を撃退しようと参戦したが惨敗し、キエフへ篭城した。だが、兄スヴャトスラフと連れ立って蜂起したキエフ市民から逃れ、自らが治めていたペレヤスラヴリに身を隠した。

 1073年、フセヴォロドとスヴャトスラフは力ずくで、兄であるイジャスラフにキエフ公位を放棄させた。新大公となったのはスヴャトスラフであり、フセヴォロドはチェルニーゴフを確保した。およそ三年ほど大公として統治したスヴャトスラフは、1076年に亡くなった。フセヴォロドは、ポーランドに逃れていた兄イジャスラフの不在中に大公位についたが、この時すでに、イジャスラフは傭兵部隊を引き連れてポーランドを出立し、キエフを目指していた。流血の惨事を避けるために、フセヴォロドは戦わずして兄にキエフを明け渡し、チェルニーゴフへ戻った。

ポロヴェツ人の騎手

 しかし、そのチェルニーゴフをほとんど四半世紀に渡って治めた前大公スヴャトスラフの長男オレーグは、チェルニーゴフを父から受け継いだ地とみなしていた。1078年、オレーグはトムタラカニへ一時的に去ったが、いつか舞い戻り、チェルニーゴフの統治権を戦って取り戻すことを誓った。同年8月にはすでにオレーグは、ポロヴェツ人と手を組んでフセヴォロドの従士団を打ち破り、チェルニーゴフを占拠した。一ヵ月後、兄弟たちと共に大公イジャスラフはオレーグの軍隊を撃破したが、彼は戦場で非業の死を遂げた。大公位には、この時唯一生き残っていたヤロスラフ賢公の息子フセヴォロドが再びついた。オレーグはトムタラカニへ逃げ戻り、チェルニーゴフの公位にはフセヴォロドの息子、ウラジーミルがついた。そしてまさにこのことが、野心家のオレーグとフセヴォロドと未来の衝突の火種となった。

 スヴャトスラフの子であるオレーグとロマンは、翌1079年、ポロヴェツ人を引き連れてペレヤスラヴリの地に姿を現した。フセヴォロドは銀製品を送って、ポロヴェツ人に戦闘行為を思いとどまらせることに成功した。オレーグとロマンはポロヴェツ人の同盟者たちと共に立ち去らざるを得なかったが、その道中不和が生じ、ロマンはポロヴェツ人によって殺害され、オレーグは他国へ監禁するために送られた。かくしてフセヴォロドはトムタラカニを難なく手に入れ、彼は即座にそこへ代官ラチボルを派遣した。1081年、フセヴォロドの甥であるダヴィド(フセヴォロドの弟イーゴリの息子)と、ヴォロダリ(フセヴォロドの兄ウラジーミルの孫)とがラチボルをトムタラカニから追放したが、今度は彼らが、1083年に帰国したオレーグに追い出されることとなった。

古代ルーシの要塞

 次回は「エフプラクシヤとヤンカ」。乞うご期待!!

(大山・川西)



HOME > ロシア文化 > 中世ロシア興亡史講義 > 第27回

特定非営利活動法人 神奈川県日本ユーラシア協会
НПО Канагавское общество "Япония-страны Евразии"

〒231-0062 神奈川県横浜市中区桜木町3-9 横浜平和と労働会館5階
Tel / Fax : 045-201-3714  E-Mail : E-Mail  MAP

(c) Copyright by Specified Nonprofit Corporation Kanagawa Japan-Eurasia Society. All rights reserved.