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ロシア文化


中世ロシア興亡史講義 ~歴代君主の素顔とその真実~ 862-1598
Лекции по истории средневековой Руси

第26回 スヴャトスラフ二世(統治1073-1076)の生涯

スヴャトスラフ二世

 イジャスラフをキエフから追放した、彼の弟スヴャトスラフは三男坊であり、1054年からチェルニーゴフを治め、さらにその前はウラジーミル・ヴォルィンスキーを統治していた。その家族は、彼の二番目の妻の名前――オダと、五人の息子の内、四人の名前しか分かっていない、すなわち、オレーグ、ダヴィド、ロマン、ヤロスラフである。年代記作者らは、スヴャトスラフの並外れた野心、また彼の文化発展に対する関心、とりわけ書物に対する愛情を指摘している。

 1073年、従士団を引き連れたスヴャトスラフとフセヴォロドは、イジャスラフが治めるキエフへ近づいた。イジャスラフは弟たちと剣を交えることなく首都を明け渡し、息子を連れてポーランドへ逃げた。大公位には年長制の序列に従って、年上のスヴャトスラフの方が就いた。

 ルーシの諸公は、対立する公の軍事力が疑いもなく自らより勝っていることが明らかな場合、戦場から戦わずして敗走することがしばしばあった。年代記の中では、そのような意図的な退却も、また反対に完全なる壊滅の結果起こるパニック状態の退却も、「公は逃走した」と同じように言い表された。公が意識的に戦場を後にしていったとしても、彼は可能性がある限り、自分の兵士を保持し、新たなより強い部隊を編成するために立ち去ったのである。

 和解の余地がないと思われる敵に対しても和睦を試みることは、その当時ごく当たり前のことであった。ルーシ諸公間の内乱は、例外もあったとはいえ、最後の一兵までも戦うような非妥協的な性格を帯びてはいなかった。戦争には従士団を引き連れた公だけが参加したことを考えると、戦闘はむしろ騎士的な性格を有していたといえる。最も力ある者が権力を得、最たる弱者は恨みを抱くことなしに敵の力を認め、しばしば敵の友となったり、もし可能であれば、次の《総当り戦》のために兵力を集めたりした。居住地を根絶させるといったことは話題にも上らなかった。武力行使することによって、公はただ、郷や町に対する自らの要求を表明しただけであり、しかも彼には居住地を焼き払い、住民を駆逐するいかなる理由もなかった。戦闘前の諸公の手慣れた冗句は次のようなものであった、「打ち負かし、追い出すか、あるいは和解するかどちらかだ」。

 スヴャトスラフは、諸外国でイジャスラフが、キエフへ帰還する目的を果たすために傭兵部隊を懸命に編成していることが分かっていた。これを何とか妨害するために、スヴャトスラフは1076年に、自分の息子オレーグと、自分の弟であるフセヴォロドの息子、ウラジーミルとが指揮する軍隊を、チェコへ送り出した。遠征は成功したが、イジャスラフのもくろみはどんなにしても打ち破ることができなかった。

 1076年12月27日、スヴャトスラフは、「体中に大きな腫れ物ができる辛い病気」のためにキエフで逝去した。その当時の慣習によって、スヴャトスラフは彼の世襲領地であるチェルニーゴフの聖救世主教会へ葬られた。その後、彼に代わって、弟のフセヴォロドが大公位に就くが、1077年、再びイジャスラフが復権するのである。

 次回は「フセヴォロド(統治1078‐1093)と甥たちとの戦い」。乞うご期待!!

(大山・川西)

リューリック朝系図


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