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ロシア文化


中世ロシア興亡史講義 ~歴代君主の素顔とその真実~ 862-1598
Лекции по истории средневековой Руси

第32回 ルーシを取りまく遊牧種族

 この時期、ポロヴェツ人との戦いはルーシにとって大きな課題であった。

 ポロヴェツ人は、シルダリア上流からダニューブ河口までの広範な“キプチャクの草原”を11-15世紀にわたって支配し、複数の汗のもとに、東方では中央アジア諸国と、西方ではルーシやビザンチン、ブルガリアと深い関係を持っていた。歴史を下って13世紀にモンゴル人がつくったキプチャク汗国では、このポロヴェツ人が最多住民となる。

 彼らポロヴェツの中でも、1093年以降ルーシにとって根本的な脅威となっていたのは、ドニエプル川流域に本営地があったボニャク汗と、ドン川流域に本営地を置くシャルカン汗であった。1103年の秋、ルーシの諸公は共同遠征の合意に達し、その連合軍はアゾフ海沿岸の近くでポロヴェツ人の大軍を粉砕して、彼らの宿営地を通って略奪されたものを取り戻し、捕虜を解放し、遊牧民の生活基盤である家畜を追いやりながら進んでいった。連合軍は本営地までたどり着かなかったとはいえ、その粉砕の有様は、その後三年間はポロヴェツ人がルーシのことを見向きもしなくなるほど壊滅的なものであった。

 だが、近隣のポロヴェツ人の中には、ルーシ国境の警備隊を支え、遠方の巡回勤務を一部引き受け、ルーシ諸公の同盟者として彼らの内乱に加わる者もいた。とはいえ、彼らは時として裏切り、ルーシの対外的な敵対者側に乗り移ったりした。また、ルーシの同盟者となったとはいえ、そういったポロヴェツ人が自分たちと同種族の戦いの場において、ルーシ諸公に本質的な援助を与えることは不可能であった。こうして敵としてのポロヴェツ人も、同盟者としてのポロヴェツ人も、結果的には、対ポロヴェツを掲げてルーシ諸公をまとめ上げることとなる中興の祖ウラジーミル・モノマフ登場の前提条件をつくることとなる。

 この頃までに、ルーシの周辺の遊牧民の中には、定住生活に傾いている種族もあった。チュルク民族に属するトルク人、ベレンディ人、コヴィ人、ペチェネグ人などがそうである。彼らはポロヴェツ人の攻撃に太刀打ちできずに、ルーシの保護を求めつつ、12世紀半ばにひとつの集団を形成した。黒頭巾をかぶっていたために、ルーシでは彼らは「黒頭巾(チョールヌィエ・クロブキ)」と呼ばれた。キエフ権力は、黒頭巾をドニエプル川右岸およびその支流ロシ川流域に住まわせた。彼らはキエフの諸公に忠誠を示したが、自らをルーシの地に依存しない独立した者と考えていた。12世紀の終わりには、キエフ諸公は黒頭巾をポロヴェツ人の襲来からルーシの地を守るために利用しようとし、大体においてポロヴェツ人がロシ川沿岸の地より先に進軍することは稀であった。加えて、黒頭巾は、キエフ諸公間の内乱のために安価で多数の軍隊を供給した。

 この当時、ポロヴェツ人の攻撃が以前より一層ルーシ諸公の重荷となったのは、ルーシ内で封建的な支配が強化されていったためだと考えられる。すなわち、封建所領の広範な形成期に村や町が破壊され、農民や工人が連れ去られることは、ルーシ諸公の権力基盤そのものを揺るがすゆゆしき事態であった。当時のルーシ諸公の国土防衛意識には現実的な根拠があったのである。そしてそれはまた、戦士集団の中に自由農民が存在したヤロスラフの時代から、専業戦士と従属農民の分化した時代へと次第に変化してゆく過程であったともいえよう。

 次回は「中興の祖ウラジーミル・モノマフの出自(統治1113-1125)」。乞うご期待!!

(大山・川西)



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