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ロシア文化


中世ロシア興亡史講義 ~歴代君主の素顔とその真実~ 862-1598
Лекции по истории средневековой Руси

第30回 第一回ルーシ諸公会議

 スヴャトポルクがキエフ公位就任の年に、ポロヴェツ人は停戦条約の延長を提案した。それは、ポロヴェツ人が前大公フセヴォロドと結んだものだったが、平和の代償としてルーシに多額の金を支払うよう求めたものだった。スヴャトポルクは、当時ルーシの地で飢饉が続き住民の貧困化が進んでいたために、大がかりな軍隊を編成し得ないことを知っていたはずであった。だが、スヴャトポルクはポロヴェツ人に金を支払うのを拒んだ上、彼らの使者を牢獄へ投じてしまった。遊牧民にとってこれは、戦場で流される血のみが帳消しにし得る侮辱行為であった。一方、スヴャトポルクは貴族の側近らに圧力をかけられて使者たちを解放し、和平をすら求め始めた。しかし、すでに遅かった――ポロヴェツ人は交渉を拒み、ルーシの地へ進軍してきたのである。大公を助けに来たのは、前大公の息子ウラジーミルであり、彼らの連合従士団はポロヴェツ人に向かって出撃したが、1093年の早春にトレポリの町近くのストゥグナ河畔で行われた会戦で撃破された。キエフに逃れおおせたスヴャトポルクは再度出撃することを試みたが、さらにひどい壊滅的な敗北をこうむった。

 スヴャトポルクは、別の側面から遊牧民問題を解決しようと努め、翌1094年にポロヴェツ公トゥゴルカンの娘と再婚した。しかしながら、その二年後に起こったポロヴェツ人との戦いの際、この婚姻関係はポロヴェツ人を少しも当惑させないことが明らかになった。

 スヴャトポルクとウラジーミルの従士団の壊滅をすぐさま利用したのは、長らく前から遠方のトムタラカニで時をうかがっていたオレーグである。1094年の夏、彼はチェルニーゴフを強襲し、長期に渡る包囲の後にそこを占領した。オレーグは、彼の父親が約25年間治めていたチェルニーゴフを自分の世襲地とみなしていたのである。

 オレーグによってチェルニーゴフから追放され、ペレヤスラヴリを治めていたウラジーミルの発意により、1096年にキエフで第一回ルーシ諸公会議がもよおされた。とりわけ、ポロヴェツ人に対する共同防衛についての問題が討議された。オレーグはキエフへ行くことすら拒み、会議の決定に従って、罰として彼は強制的にチェルニーゴフから立ち去ることを余儀なくさせられた。翌年、諸公会議が再びリューベチの町で開かれた。招集のイニシアチブを取ったのはまたもやウラジーミルであった。

S.V.イヴァノフ「諸公会議」

 他のルーシ諸公の軍隊が加わったスヴャトポルクとウラジーミルの連合従士団にとって、1096年はまるまる戦いと遠征に明け暮れた年だった。ペレヤスラヴリを襲撃してきたトゥゴルカンの軍隊を撃退し終わらない内に、ルーシの従士団は、キエフを包囲したボニャク汗の軍に立ち向かわざるを得なかった。ところが、そこにオレーグが迫ってきた。大公らがポロヴェツ人と戦っている間に、彼は軍隊を集めてリャザンを占領し、ムーロムへ進軍した。ムーロムの従士団を撃破した彼はスーズダリへ向った。スーズダリの人々はオレーグに町を明け渡し、その後ロストフが陥落した。ウラジーミルの長男が治めているノヴゴロドに進軍する準備をオレーグが進めていたとき、彼に対してリューリック全一族が団結した。一族を敵に回すことはオレーグには到底できず、彼は占領したすべての土地を返還し、次の諸公会議には必ず参加することを誓ったのである。

 次回は「罠にはまったヴァシリコ」。乞うご期待!!

(大山・川西)



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