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ロシア文化


中世ロシア興亡史講義 ~歴代君主の素顔とその真実~ 862-1598
Лекции по истории средневековой Руси

第29回 ヤロスラフ賢公の三人の孫たち

スヴャトポルク

 元大公イジャスラフの長男スヴャトポルクは、1069年から1071年まで公としてポロツクを治めていた。1073年にスヴャトスラフやフセヴォロドがイジャスラフをキエフから追放した時、スヴャトポルクは父親と一緒にポーランドへ逃走したが、1077年に再び彼と共に戻ってきた。その後、弟たちから大公国を奪還した大公イジャスラフは、息子スヴャトポルクにノヴゴロドを与えた。1087年には、スヴャトポルクはトゥーロフを統治するためにそこへ移った。

 大公フセヴォロドが1093年に亡くなった後、キエフ公位を要求し得たのは、ヤロスラフ賢公の三人の年長の孫たちであった。彼らの中で一族の年長制の権利を有していたのは、スヴャトポルクであった。亡くなったフセヴォロドの長男ウラジーミル・モノマフは、思慮深く脇へ退き、チェルニーゴフの公としてとどまった。晩年フセヴォロドはすべての国政を彼にまかせていたので、ウラジーミルこそが父親の事業を受け継ぐだろうと思われていた。しかし、ウラジーミルが頼りにしていたのは、若い側近らであって、キエフの高齢の貴族ではなかった。彼ら貴族は当然不満を持っており、大公の死後、スヴャトポルクに有利な発言をなした。幾つかの資料には、故人の遺言によっても、公位継承者はスヴャトポルクに想定されていたことが記されている。1093年4月24日、スヴャトポルクは新大公としてキエフへ入城した(統治1093‐1113)。

アレクシオス一世コムネノス

 ヤロスラフ賢公の孫たちは、今やルーシの内部で、互いに対立する三つのグループを形成するにいたった。キエフのスヴャトポルク、トムタラカニのオレーグ、そしてチェルニーゴフのウラジーミルの面々である。スヴャトポルクが、一族の年長制の権利を拠り所として大公の地位にいるとすれば、その同じ権利に基いて、スヴャトポルクに次ぐ年齢のオレーグは、ウラジーミルが統治するチェルニーゴフを要求することができた。その頃には、チェルニーゴフはルーシ第二の都市となっており、その直接の影響下にスモレンスクやベロオーゼロ、ロストフ、スーズダリ等の町や諸土地があった。それらのことを考慮しても、オレーグが後々自分の権利を主張する機会を逃すはずがなかった。

 スヴャトポルクには、ビザンチン皇帝アレクシオス一世コムネノスの娘である最初の妻の他に多くの妾がおり、彼女らが産んだ子を、ルーシの伝統に背いて正妻の子供たちと権利の上で平等とした。諸史料は、スヴャトポルクの長男ムスチスラフは妾から生まれた子であったことを伝えている。また、彼の息子ヤロスラフ(1100年からウラジーミル・ヴォルィンスキーを治めた)、さらに娘スビスラヴァとペレドスラヴァ(それぞれ1102年、1104年にヨーロッパの統治者に嫁いだ)は、大公が再婚する前に誕生した子と推測され、彼らの母親は不明である。年下の息子であるブリャチスラフとイジャスラフの母親は、おそらくスヴャトポルクの二番目の妻、ポロヴェツ公トゥゴルカンの娘エレーナであったと思われる。

キエフ・ペチェルスキー修道院

 スヴャトポルクは、国立アルヒーフを開設し、その結果、ルーシの歴史に関するばらばらの断片図が理路整然たる物語に変わった。彼の依頼で仕事の先頭に立ったのは、キエフ・ぺチェルスキー修道院の修道士である歴史家、また大公の個人的な年代記作者でもあったネストルだった。

 次回は「第一回ルーシ諸公会議」。乞うご期待!!

(大山・川西)



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