◆第31回 罠にはまったヴァシリコ
1097年の末にリューベチにて開かれた第二回諸公会議上で、ヤロスラフ賢公の遺言に従い、諸公間の問題は平和的な方法で解決することが取り決められた。不服従者には団結して罰を与えることが決められ、その誓いのしるしに諸公は十字架に接吻した。ところが、会議後すぐさまその誓いを破った者は大公のスヴャトポルク自身であった。
ヴィドゥビツキー修道院の聖ミハイルに敬意を表するために、テレボヴリのヴァシリコ(ヤロスラフ賢公の孫であるロスチスラフの息子)がキエフにやって来ていた。彼の所有するテレボヴリはウラジーミル・ヴォルィンスキー公国にあったが、そこを治めていたダヴィド(ヤロスラフ賢公の子イーゴリの息子)はスヴャトポルクに、ヴァシリコとウラジーミルが大公に対して陰謀をたくらんでいると吹き込んだ。そこでスヴャトポルク自身がヴァシリコを客に招いて彼を捕らえ、ダヴィドに引き渡すことが計画された。召使の密告により、ヴァシリコは前もってその陰謀を知らされていたが、彼はそのような背信行為を信じることができなかった。というのも、諸公間の問題を平和的に解決すると誓ってから、一週間も経っていなかったからである。しかし、警告は誠であった―ヴァシリコは大公の宮殿内で捕えられたのである。翌朝、スヴャトポルクは、特別に召集した修道院長と貴族らにこの陰謀のことを伝え、ダヴィドはヴァシリコを失明させることを求めた。ダヴィドによって、ヴァシリコはキエフから20露里離れた町へ送られ、そこでダヴィドの部下がヴァシリコの目を突き刺した。その後、不具になったヴァシリコはウラジーミル・ヴォルィンスキーへ護送され、その地に投獄された。ダヴィドはスヴャトポルクの同意を得て、テレボヴリの町とその周辺の地を自分の公国に合併し、そう公表したが、大公スヴャトポルクの誓い破りとも思われる振る舞いは、同時代の人々に衝撃を与えた。
他の緒公たちは、誓いに背いた公ダヴィドを罰する必要があった。リューリック一族の従士団を一手に集結させたウラジーミルはキエフへ赴き、このウラジーミル・ヴォルィンスキーへの遠征隊に加わるようスヴャトポルクに要求した。スヴャトポルクはあえて拒みはしなかった、というのも、拒んだ場合、彼はリューリック一族全てを敵に回すこととなったからである。このような強大で権威づけられた軍隊に対抗して、ダヴィドが自分の同盟者を見出せなかったのは当然のことであった。ダヴィドはヴァシリコを釈放し、彼自ら自分の部下を罰した。ヴァシリコは自分の兄弟らと団結し、取り上げられた土地すべてを奪回してから、ウラジーミル・ヴォルィンスキーを包囲し、自分の誘拐に手を下した者すべての引渡しを要求した。ダヴィドの手から自分を不具にした張本人らを受け取ったヴァシリコは、町の城壁の前に彼らを吊るし、矢を撃つよう命じた。1100年に行なわれた三回目のルーシ緒公会議にて、ダヴィドからウラジーミル・ヴォルィンスキー公国を取り上げることが決定され、スヴャトポルクはそこへ自分の息子ヤロスラフを差し向けた。
スヴャトポルクは長い間何らかの病気に苦しんでいたが、1113年の春にその病いがひどく高進し、4月16日に逝去した。彼はキエフの聖ミハイル教会に埋葬された。
次回は「ルーシを取りまく遊牧種族」。乞うご期待!!
(大山・川西)
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