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ロシア文化


中世ロシア興亡史講義 ~歴代君主の素顔とその真実~ 862-1598
Лекции по истории средневековой Руси

第35回 モノマフ、キエフ入城

諸公会議におけるモノマフ

 1113年4月16日、大公スヴャトポルクが突然死去した。この時点で、大公位を要求する権利を持つ者は四人いた。リューリック一族の最年長者は、元大公スヴャトスラフの息子オレーグであったが、彼はすでにかなり前から病床にあった。オレーグに次ぐ年長者は、彼の弟のダヴィドであったが、ダヴィドはどのような政治事にも参加する気はなかった。その次にくるのがウラジーミル・モノマフであり、その後にオレーグの弟のヤロスラフがきた。

 スヴャトポルクの死後、民衆の暴動が始まった。法外な税金と高利貸による搾取に苦しめられていた民衆は、金持ちの家を襲い始めた。オレーグが大公位に就くことを願っていた千人長のプチャタの屋敷も、この時破壊されてしまった。千人長の地位は非常に高く、大公が不在の場合は千人長の手中に民事権力も軍事権力も収められた。キエフの府主教ニキフォルの呼びかけで、地元の聖職者と貴族がすべて聖ソフィア聖堂へ緊急に集まった。あれこれ考え込んでいる暇はなかった。ウラジーミル・モノマフを大公位に就かせることに異議を唱えるものは誰もいなかった。ルーシにおける彼の活躍はすべての者に知られていた。この件は民会で承認され、急使がペレヤスラヴリへ向けて疾駆した。

モノマフの金貨

 経験豊かなウラジーミル・モノマフは、キエフへ急いで出発しようとはしなかった。オレーグとダヴィドは彼よりも年上だった。今は彼らは大公位に就くことを望んではいないが、将来はどうだろう?内乱がまた再び起こったら?あるいは、ウラジーミル・モノマフに不満を抱いていたキエフの貴族たちは?それに加えて、モノマフは、民衆がスヴャトポルクの支配を不満に感じていた理由をよく理解していた。しかしいずれにしても、暴動者らを鎮圧しなければならないだろう・・・。

聖ソフィア聖堂のモザイク

 ウラジーミル・モノマフが逡巡していた間に、暴動はキエフから付近の定住地に飛び火していった。群集はペチェルスキー修道院とヴィドゥビツキー修道院へと進み、キエフにある大公宮殿を包囲した。聖ソフィア聖堂での差し迫った会議の後、急使がウラジーミル・モノマフのもとへ絶望的な手紙を届けた。その手紙の中では、民衆による修道院の略奪に対する責任が彼に負わせられていた。おそらく、これはウラジーミル・モノマフの重い腰を上げさせた最も重要なきっかけとなった。彼は常に、教会の聖物に対してしかるべき敬意をもって接していたからである。

 4月20日、えり抜きの従士団を連れてウラジーミル・モノマフはキエフへ入城した。ポロヴェツ人との戦いで鍛錬された従士団の姿は一目見ただけで、多くの反乱者の酔いを醒まさせた。その後、新大公ウラジーミル・モノマフは、すべての者が予期していたような反乱者の逮捕に着手する代わりに、貴族らを招集して長時間にわたる会議を開いた。数日後、民衆は、後に拡大本『ルーシ法典』の一構成部分となる「ウラジーミル・フセヴォロドヴィチの法規」を受け取った。その内容は、あらゆる階層の所有者の権利を保護するだけでなく、農民や手工業者の零細経営にもまともな援助を与えるものだった。その上、スヴャトポルクの時代に最貧困層のほぼ全体を債務奴隷状態に引きずり込んだ、商人と高利貸の横暴が、根本的に制限されていた。こうして、社会内の緊張状態が少しずつ減じてゆくのである。

 次回は「モノマフの遺言」。乞うご期待!!

(大山・川西)



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