◆第33回 中興の祖ウラジーミル・モノマフの出自(統治1113-1125)
元大公フセヴォロドの長男ウラジーミルは、先祖に敬意を表して三つの名前を得ていた。公の世俗名ウラジーミルと洗礼名ヴァシーリーは、曽祖父であった大公聖ウラジーミルに由来し、モノマフは、母方の祖父であったビザンチン皇帝コンスタンチン九世モノマフから取られている。
ウラジーミル・モノマフはその幼年時代を、ポロヴェツ人との国境付近にあるペレヤスラヴリで過ごし、当時そこは彼の父親フセヴォロドが治めていた地であった。その頃、キリスト教国家の12~14歳の少年少女はすでに成人とみなされていた。彼らは結婚したり、遠征に参加したり、大規模な狩猟を行う権利を有し、遺産を受け取って独立して世襲領地を治めることができた。幼い時からウラジーミル・モノマフも軍事遠征や狩猟に参加し、12歳になると、フセヴォロドは彼をロストフに差し向け、公として統治させた。それ以降、ロストフ公国、その後のロストフ・スーズダリ公国の興隆が始まり、やがてそこはウラジーミル・モノマフと彼の子孫の世襲領地の一部となった。1073年からウラジーミル・モノマフは、フセヴォロドが支配していたチェルニーゴフに属する、スモレンスクを統治し始めた。それ以前の1066年、彼はイングランド王ハロルド二世の娘ギータと結婚している。1076年、第一子ムスチスラフが生まれ、その後、ヤロポルク、イジャスラフ、ヴャチェスラフ、スヴャトスラフ、娘のエヴフィミヤ、マリヤ-ドブログネヴァ、ヴェルフスラヴァ、アガフィヤが誕生した。
ウラジーミルの最初の妻ギータが亡くなった年は明らかになっていない。それゆえ、彼が再婚した年月日は推測することしかできない。この再婚でさらに、ユーリー、ロマン、アンドレイが生まれた。二番目の妻の名前や出身は諸史料の中に残されておらず、分かっているのは彼女が1107年5月7日に亡くなったことだけである。このような次第で、モノマフには二度の結婚で八人の息子と四人の娘がいたが、彼が大公として統治し始める頃に生きて残っていたのは、息子たちの中で五人に過ぎなかった。
1078年、大公になったフセヴォロドは、その重要性においてルーシ第二の町であるチェルニーゴフを自分の長男であるウラジーミル・モノマフにゆだねた。しかし、ウラジーミルの従兄弟である、元大公スヴャトスラフの息子オレーグは、チェルニーゴフを自分が世襲するべき町と考えていた。というのも、彼の父親が約25年間そこを治めていたからである。オレーグは好機を待ち続け、1094年の春の終わりにチェルニーゴフを包囲した。八日間、ウラジーミル・モノマフは包囲攻撃から町を守ったが、どこからも援軍の当てはなかった。オレーグは、ウラジーミル・モノマフが無駄な抵抗を止めるならば、彼がそのまま町を立ち去ることを許した。降伏したウラジーミル・モノマフは、家族と従士団の残りを引き連れて自分が幼年時代を過ごしたペレヤスラヴリに戻り、再びそこの公位についた。
20年後、彼は大公として統治するために、まさにそこからキエフへ発つのである。
次回は「若き獅子ウラジーミル・モノマフ」。乞うご期待!!
(大山・川西)
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