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ロシア文化


中世ロシア興亡史講義 ~歴代君主の素顔とその真実~ 862-1598
Лекции по истории средневековой Руси

第36回 モノマフの遺言

モノマフの帽子

 各地における自らの権力を強化するために、ウラジーミル・モノマフは自分の息子たちを方々の公国へ送り出した。ペレヤスラヴリにはスヴャトスラフが赴き、スモレンスクにはヤロポルクがとどまったが、その後ヴャチェスラフがそこを統治した。スーズダリにはユーリーが任命された。長男ムスチスラフはノヴゴロドを治めていたが、1117年にモノマフは、後継者である彼をキエフに近いヴィシゴロドへ移した。自分が亡くなった場合、彼にキエフを残すためであった。ノヴゴロドには、ムスチスラフの息子であるフセヴォロドが就いた。

 新しい統治者の力強く公正な手腕を、ルーシ諸公も感じ始めていた。ウラジーミル・ヴォルィンスキーにおける前大公の息子ヤロスラフの暴動を素早く鎮圧したウラジーミル・モノマフは、諸公会議の決定は全員にとっての法律であることを、すべての者にはっきりと示した。頑ななノヴゴロド人ですら、彼の大きな力を認めていた。ウラジーミル・モノマフの孫がノヴゴロドを治めていた時に、モノマフに忠実な貴族に対して略奪行為を行い、不法行為を働いた者たちがいた。彼らも貴族であったが、ノヴゴロド人はこのような者たちをキエフの裁判所へ送ることとなった。こういった義務をノヴゴロド人はそれまで受け入れてはいなかったが、モノマフには抗せなかった。とはいえ、「大公は厳しい」とこぼすことは誰にもできなかった。ウラジーミル・モノマフは通常、国家の秩序を乱す最初の企ては大目に見、二度目で厳しく処罰した。大公国の法廷でのモノマフは、法律に準拠しつつも、かなり寛大に処罰を決定する統治者であった。

 1116年、ウラジーミル・モノマフは、ポロヴェツ人に対する定期的な先制攻撃を行い、ノヴゴロド人とプスコフ人と共に戦った。同じ年に、ドナウ川流域にルーシ軍を送って、そこの支配を確立しようと試みた。これはビザンチンにとっては不都合なことだった。皇帝アレクシオス一世コムネノスはキエフへ豪華な贈り物を送り、モノマフの孫娘のドブログネヴァと自分の息子との婚約式を行うことを提案した。ウラジーミル・モノマフはこの提案をより将来性のあるものとみなし、遠征中の軍隊をドナウ川流域から呼び戻した。四世紀を経て、『ウラジーミル諸公物語』の中で、ビザンチンからモノマフに皇帝の象徴が与えられ、府主教ネオフィトによってモノマフに帝国が戴冠させられたような記述が現われた。この話は、政治的な作り話以外の何ものでもなかったが、イワン雷帝がツァーリの称号を受けるにあたって、その合法性を立証する史実となった。

 ウラジーミル・モノマフは、亡くなる前に自分の領土を分配した。ヤロポルクにはペレヤスラヴリを、ヴャチェスラフにはトゥーロフを、ユーリーにはスーズダリを、アンドレイにはクリャジマ河岸のウラジーミルを、孫のフセヴォロドにはノヴゴロドを遺言で与えた。一族の最年長者であるモノマフの従兄弟のヤロスラフ(元大公スヴャトスラフ二世の息子)がまだ生きていたが、彼は長男のムスチスラフに、大公位とキエフとを継承させた。

 死期が近いのを感じた大公は、ペレヤスラヴリからそれほど遠くない、アルタ川岸へ去った。聖ボリス公が殺害された場所にある小礼拝堂の隣りに小さな家が建てられ、その家でウラジーミル・モノマフは1125年5月19日に逝去した。大公の遺体はキエフへ運ばれ、聖ソフィア教会に埋葬された。

リューリック朝系図


 次回は「モノマフ、ムスチスラフによる年代記の編纂」。乞うご期待!!

(大山・川西)



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