
◆ 第39回 内乱の幕開け
大公ムスチスラフが亡くなった後、一族の年長制の伝統に従って、ムスチスラフの弟でありモノマフの次男であるヤロポルク二世が、キエフ大公位に就いた(統治1132-1139年)。
若い頃スモレンスクを治めていたヤロポルク二世は、そこでポロヴェツ遠征から連れ帰った、ヤス人の公の美しい娘と1116年に結婚した。ムスチスラフは1125年に、エネルギッシュなこの弟を、ペレヤスラヴリに公として統治するために移した。その地は当時、ルーシの第二の都市となっていた。ヤロポルク二世はじきに勇敢で決断力のある軍司令官としての名声を得、ムスチスラフは彼にキエフ・ペレヤスラヴリ連合軍の指揮を任せるようになった。
諸史料は、過失を犯した者に対する、ヤロポルク二世の過分な寛大さを指摘している。彼はその温和さのゆえに人々から愛されていたが、確固たる性格の持ち主ではなかったようである。まさにそのために、ヤロポルク二世の即位後、諸公間で内乱が始まった。
事の発端は、ヤロポルク二世とムスチスラフ、そして彼らの父親モノマフの間で生前に取り決められていた約束であった。ヤロポルク二世は、ムスチスラフが亡くなった時には、ペレヤスラヴリに自分の息子ヴァシーリーではなく、ムスチスラフの長男フセヴォロドを公として据えることをムスチスラフに約束していた。
このペレヤスラヴリをめぐる就任劇は、他のルーシ諸公にとって、それまでの慣例的な展望を覆す不穏な新しい動きであった。というのは、モノマフもヤロポルク二世も、ペレヤスラヴリを統治した後に大公位に就いていたからである。無論、フセヴォロドがペレヤスラヴリ公になったからといって、それは彼がキエフ大公位の次代継承者であると明言するものではなかった。しかしながら、このことは、ヤロポルク二世の死後、キエフ大公位が代々ムスチスラフやヤロポルク二世といったモノマフ家の年長の息子たち一族の手にのみ渡ってゆくことを示唆しないものではなかった。その場合、モノマフの年少の息子たちばかりでなく、チェルニーゴフの地を治めていた大公スヴャトスラフ二世の子孫も、大公位継承者の数から自動的に外されてしまうことになるのだった。
次回は「ユーリーとアンドレイの反乱」。
乞うご期待!!
(大山・川西)
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