◆ 第38回 モノマフの子、ムスチスラフ(統治1125-1132年)
大公ウラジーミル・モノマフの死後、キエフ大公位には彼の長男であるムスチスラフが就いた。
ルーシの諸公会議によって決議された、一族の最年長者に権力が譲渡されるという昔からの伝統に違反していることは、明らかであった。というのも、故モノマフの従兄弟であり、スヴャトスラフの息子であるヤロスラフがまだ健在だったからである。ヤロスラフは不満を表明しはしたが、おおっぴらにいざこざを起こすことは望まなかった。その頃には実質的にすべての中央権力がムスチスラフの手中にあったので、容易には踏み切れなかったのかもしれない。モノマフは晩年、自らの傍らに常にムスチスラフを置き、彼はあらゆる国務においてモノマフの右腕となった。その上、ムスチスラフは有能で決断力のある軍司令官として名高く、彼の兄弟たちが治めていた北東ルーシの全従士団をいつでも自らの旗の下に呼び集めることができた。
ムスチスラフは父親の存命中に、二度結婚した。最初の妻のフリスチナはスウェーデン王の娘であって、二人の娘を生んだ。上の娘のドブログネヴァは、ビザンチン皇帝アレクシオス一世コムネノスに嫁いだ。下の娘は、最初はノルウェー王に、次いでデンマーク王に嫁いだ。フリスチナの死後、1121年にムスチスラフは、ノヴゴロドの長官ドミートリイ・ザヴィディチの娘と再婚した。新たに五人の息子――フセヴォロド、イジャスラフ、ロスチスラフ、スヴャトポルク、ウラジーミル――と、五人の娘が生まれた。五人の娘の内、二人は外国人に嫁ぎ、他の三人はルーシ諸公へ嫁いだ。
大公位に就いたムスチスラフが最初に行ったことは、ルーシ諸公間の相互関係を整えることだった。彼は兄弟たちの領土を保護し、彼らの中でも精力的な者たちをより重要な都市へ移した。例えば、弟のヤロポルクをペレヤスラヴリへ、同じく弟のユーリーをロストフへ移したのである。加えて、すでに慣習となった伝統にしたがって、長男のフセヴォロドをノヴゴロドの公として差し向け、ロスチスラフをスモレンスクへ送り、ウラジーミルに南ルーシの分領地を与えた。モノマフ家の直接の勢力範囲外には、チェルニーゴフとポロツクの地が残った。
チェルニーゴフについては、スヴャトスラフの息子であるヤロスラフが治めていたにもかかわらず、その甥フセヴォロド(ヤロスラフの兄オレーグの息子)がその地の公位を奪い取ってしまった。ムスチスラフには大公としてその事件に対応することが求められ、彼はヤロスラフに公正に対処することを誓った。だが、ムスチスラフ自身と彼の亡くなった父親が愛し敬っていた、聖アンドレイ教会の修道院長グリゴーリーが関与してきた。主教会議を招集したグリゴーリーは、キリスト教徒の血を流すよりも、十字架に接吻した誓いを破ることの方がまだ良いことを、そして教会が大公の罪を引き受けることを言明した。ムスチスラフはチェルニーゴフ遠征を中止したが、年代記作者が語っているように、彼はこの誓いを破ったことを死ぬまで後悔した。
ウラジーミル・モノマフが亡くなった今や、モノマフ家の息子たちは事実上互いに独立した統治者となり、最年長者である大公ムスチスラフに名目上だけ服従しているに過ぎなかった。ムスチスラフの死後、ルーシは相次ぐ諸公間の流血の内紛にぶちこまれてゆくこととなる。
1132年の初頭、ムスチスラフは重病にかかり、4月15日に逝去した。
次回は「内乱の幕開け」。
乞うご期待!!
(大山・川西)
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