◆ 第43回 大公フセヴォロド二世の手腕
フセヴォロド二世は大公位就任後、モノマフの息子たちとさらに敵対するようになっていった。1139年の秋近く、ユーリーはキエフへ遠征軍を繰り出すために兵を集めようとしたが、ノヴゴロドの人々は援助を拒否し、しかもフセヴォロド二世の弟スヴャトスラフを公として招致した。ユーリーは、自分の計画を延期せざるを得なかった。
率直に言って、フセヴォロド二世はまったく何の権利にも拠らないで大公になった。彼は、従兄弟のダヴィドの息子らと比べても年少者であったし、加えて、彼の父親は一度もキエフ公位に就いたことはなかった。このことは、ルーシのあらゆる町で、権力譲渡の際の必須の条件であり、父親が公位就任者でなければ、その息子に位が譲り渡されることはなかった。しかし、フセヴォロド二世は、古代ルーシの相続上の伝統になどまったく注意を向けなかったのである。
1126年に彼は、力づくで叔父のヤロスラフからチェルニーゴフ公国を奪い取り、早くも1132年にはキエフ公位を掴み取る最初の試みをなした。彼の母方の母親の家系によれば、フセヴォロド二世とその兄弟らはポロヴェツ人の汗の孫にあたり、そのため彼は幾つかのポロヴェツ人の部隊を味方に引き寄せることができた。だが、1132年時には即座にキエフを占領することは叶わなかった。
キエフ大公の位へ就くまでにフセヴォロド二世は、親族の間にかなりの数の敵をつくったが、ただ如才ない陰謀と巧みな政治的手腕のおかげで、彼は7年間も権力の頂点にとどまることができた。そこでは、彼の知性、狡猾さ、約束を違えない能力が少なからず重要な役割を果たしたといえよう。とはいえ、フセヴォロド二世はキエフ公位に就いた後でさえ、己の攻撃性を抑えることができず、モノマフの子らやムスチスラフの子らからトゥーロフ、ペレヤスラヴリ、ウラジーミル、スモレンスクを奪取しようとたくらんでいた。しかし、その試みが成功することはなかった。
次回は「フセヴォロド二世とブィリーナ」。乞うご期待!!
(大山・川西)
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