
◆ 第42回 チェルニーゴフ公フセヴォロド(統治1139-1146年)の暴走
1139年2月24日、大公ヤロポルク二世の葬儀の数日後、一族の最年長制の序列に従うとヤロポルク二世の次に来る、彼の弟ヴャチェスラフがキエフへ入城した。キエフの府主教と地元の名士の代表団が、ヴャチェスラフを新大公として迎えた。
この頃、チェルニーゴフ公フセヴォロドの連合軍が、すでにキエフへ進軍を開始していた。フセヴォロドは、力ずくで大公位を奪取しようと再度試みたのであった。彼は従士団を補強するために、弟のスヴャトスラフと親戚のウラジーミル(モノマフの従兄弟であるダヴィドの息子)を味方に引き入れ、手始めにヴィシゴロドを占領し、その後キエフを包囲して、威嚇のためにコプイレフ周辺に火を付けた。当然ながら、この襲撃はヴャチェスラフにとって青天の霹靂であった――彼が最高権力の座につくのは、一族の年長制に従えば、完全に正当な行為だったからである。とはいえ、ヴャチェスラフが抵抗したとしても、流血の惨事を引き起こすだけであったろう。キエフの町は隙間なく包囲され、ヴャチェスラフはどこからも援軍を期待することができず、彼の従士団に勝ち目はなかったからである。ヴャチェスラフは血を流すことを望まず、フセヴォロドのもとへキエフの府主教を遣わして、次のような言葉を伝えさせた。「余は略奪者ではない、しかし、我らの父祖が取り決めたことが汝にとって神聖な法ではないのならば、汝がキエフの君主になるがよい…」。
ヴャチェスラフは支障なく首都を去り、チェルニーゴフ公フセヴォロドは3月5日にキエフ公位に就き、フセヴォロド二世となった。チェルニーゴフの長年の夢を実現させたことを祝して、フセヴォロド二世は聖職者と貴族のために大規模な宴を開いた。民衆には通りで飲み物や食べ物が配られ、教会と修道院は新大公から豪華な贈り物が与えられた。
キエフを約二週間ばかり治めたヴャチェスラフは、自らの領地であるトゥーロフに去り、その後どのような政治的事柄にも関わることを望まなかった。モノマフの残りの息子たちには、フセヴォロド二世と戦争を始める理由がなかった、というのも、彼らは一族の中にあって、フセヴォロドよりも年少者だったからである。
次回は「大公フセヴォロド二世の手腕」。乞うご期待!!
(大山・川西)
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