◆ 第41回 領土の再分割とキエフ大公国の弱体化
ユーリーやアンドレイの反乱、チェルニーゴフ公フセヴォロドによるキエフ占領の試みの後、領土の再分割が行われた。ユーリーは自分の希望を貫き、ロストフとスーズダリを大公に引き渡す代わりに、スーズダリ公国のかなりの部分で徴税する権利を保持した。その上、ペレヤスラヴリを手にした。1134年頃には再分割が終了した。モノマフの息子たちは自らの領地を著しく拡大したが、それは彼らの甥や前大公ムスチスラフの息子たちを犠牲にしたうえでのことであり、新たなる紛争は避けられなかった。
叔父たちに甘い汁を吸われたイジャスラフとスヴャトポルク(ムスチスラフの子ら)は、チェルニーゴフ公フセヴォロドとポロヴェツ人らと手を組み、連合軍を形成し、1134年から35年の冬にかけてペレヤスラヴリを襲撃した。このことによって彼らは、キエフに現実の脅威をもたらした。大公ヤロポルク二世はフセヴォロドと和睦することができたが、長くはもたなかった。チェルニーゴフの諸公はキエフ従士団を粉砕し、ヤロポルク二世はペレヤスラヴリ公国のかなりの部分を彼らに引き渡すことになってしまった。ユーリーは、スーズダリに退却することを余儀なくさせられた。
大公ヤロポルク二世の損失はこれで終わらなかった。キエフの弱体化を感じ始めたノヴゴロド人は、1136年の春、前大公ムスチスラフの長男フセヴォロドを追放し、彼に続いてチェルニーゴフ公フセヴォロドの実の兄弟であるスヴャトスラフをも追放した。今や大公は、軍事力を適用せずして自分の代理人をノヴゴロドに任命することはできなくなってしまった。ノヴゴロドの人々は自主的にユーリーに訴え、ユーリーは自分の長男ロスチスラフを彼らに差し向けた。
土地征服の味を覚えたチェルニーゴフ公フセヴォロドをおとなしくさせるために、ヤロポルク二世は全領土から軍隊を集め、チェルニーゴフへ進撃した。それは、ヤロポルク二世が亡くなる寸前のことであった。ヤロポルク二世の襲来を受けてフセヴォロドは逃亡しようとしたが、チェルニーゴフ市民が彼が逃げ出すのを許さず、大公に従わせた。
大公ヤロポルク二世は1139年2月18日に亡くなり、キエフにある聖アンドレイ教会の修道院に埋葬された。しかし、あちこちの諸公の間で火はくすぶり続けた。
次回は「チェルニーゴフ公フセヴォロドの暴走」。乞うご期待!!
(大山・川西)
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