◆ 第45回 イーゴリ公の排斥
自らの死を目前にして大公フセヴォロド二世は、キエフの人々に自分の弟であるチェルニーゴフ公イーゴリに忠誠を誓わせた。一族内の情勢は再び不安定なものとなった。なぜならば、この度も一族内の最年長制による権力譲渡体制が無視されたからである。今や、ヴラジーミル・モノマフの孫たちばかりでなく、新大公の近しい親族、すなわち、イーゴリの父親の兄弟であるダヴィドの血筋をひいている者たちさえも避けられるようになった。
フセヴォロド二世が亡くなって数日もすると、キエフの下層階級の暴動が始まった。諸史料によれば、イーゴリがキエフ市民に忠誠の誓いを要求すると、彼らはイーゴリにも市民に対して誓約するよう求めた。その誓約の内容は、大公自ら、あるいはしかるべき高官の助けを借りて、公正に裁き、治めるということであった。イーゴリはそのことを誓ったが、金に汚い者や、貧民らを抑圧するような貴族を自身の傍らに置いた。これを受けて民会は、誓約を破った公は法にのっとった君主ではあり得ないと決定した。キエフの有力者たちは、このような状況の中で騒動が勃発するのを待たずに、ペレヤスラヴリを統治しているモノマフの孫であり、元大公ムスチスラフの息子であるイジャスラフに代表団を差し向けた。キエフ市民は伝統的にオレーグ一族を好まず、モノマフ一族に好意的であったようである。
イーゴリに比べ、イジャスラフの側は、一族の最年長制の権利を有していたので、イジャスラフはためらうことなくキエフ代表団の申し出を受け入れた。その後、野外戦でイーゴリの従士団を撃破したイジャスラフは、おごそかにキエフへ入城した。会戦から三日後に捕虜となったイーゴリは、数日間修道院に拘禁された。年代記が伝えるところによれば、彼はそこで自発的に剃髪して修道士になったが、ペレヤスラヴリにある聖イオアン修道院の牢獄へ入れられたという。
このイジャスラフによる大公位獲得は、予想外であったために内紛の種となり、彼が亡くなるまでの八年間、親族間の権力闘争が激化することとなる。
次回は「イジャスラフ二世の歩み(統治1146-1154)」。乞うご期待!!
(大山・川西)
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