◆ 第77回 聡明なる公コンスタンチン(統治1216-1218年)
前々回では、モンゴルの大軍団がルーシの地を破壊し、大公ユーリー二世も戦死した。さらに少し歴史の時間を戻そう。
ユーリー二世の父親であった大公フセヴォロド三世は、1207年、その長男コンスタンチンにロストフとさらに五つの町を与えた。コンスタンチンはロストフの有力者らと友好的な結びつきを得るようになり、ロストフ-スーズダリ公国の地位復興を目指す者となった。1212年、重病の床に伏した大公フセヴォロド三世は、長男コンスタンチンに大公国を譲り渡す、という自らの遺言を息子たちに告げたが、その後、コンスタンチンからロストフへの首都移転計画を打ち明けられ、将来を危ぶんだフセヴォロド三世は、自らの遺言を撤回して、四番目の息子ユーリーに大公国を遺すことを決定した。これによって、一族の最年長者に権力を引き渡す古くからの慣習は破られ、コンスタンチンには新大公に刃向かう大義名分が生まれることとなった。
兄弟間の内乱は、フセヴォロド三世の死後一年目に始まった。コンスタンチンは以前通りにロストフを統治し続けたが、ウラジーミル公位を奪取したいという志を隠そうともしなかった。1212年と1213年の二度に渡り、ユーリー二世はロストフを力ずくで征服することを試みたが、コンスタンチンの従士団は二度とも襲撃を撃退した。1215年、彼らの弟ヤロスラフと、彼が治めていたノヴゴロドの地の人々との間で不調和が生じるようになった。そこは、1214年までトロペツのムスチスラフ(第70回系図参照)が統治していた。紛争は軍事衝突へと発展した。大公ユーリー二世は弟のヤロスラフを援助するために軍隊と共に出立し、一方、コンスタンチンは、ノヴゴロドの人々とムスチスラフの側についた。1216年、ユリエフの町近くのリピツァ川岸辺における会戦で、ムスチスラフとコンスタンチンが勝利した。この後、ユーリー二世はウラジーミルから立ち去ることを余儀なくされ、大公国にはコンスタンチンが大公として就き、彼は七歳の息子ヴァシーリーを信任された貴族らと共にロストフの統治に、また五歳の息子フセヴォロドをヤロスラヴリの統治に差し向けた。
コンスタンチンは、民衆に対して、また年代記作者らに対しても好意的な印象を与えた。彼は物惜しみない施しを貧乏人や乞食に与え、教会堂の建設に多くの労力を払い、信仰において揺るぎなく、深い敬意をもって神聖な聖骸に接した。スーズダリの年代記作者は、コンスタンチンが『魂を救う書』を読んだばかりでなく、その書物の助言に従い、またそれに基づいて堕落した人々を正しい道に導いた、と伝えている。大金でもってコンスタンチンは、諸外国から古書を買い付け、翻訳家の仕事を確保した。また彼は、古代ルーシ諸公の生涯から多くの出来事を、自分の手で記述した。こうして、民衆の間で彼は“聡明なる公”と呼ばれるようになった。1218年、コンスタンチンは逝去し、ウラジーミル生神女聖堂に埋葬された。
次回は「ヤロスラフ二世の生い立ち(統治1238-1246)」。乞うご期待!!
(大山・川西)
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