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ロシア文化


中世ロシア興亡史講義 ~歴代君主の素顔とその真実~ 862-1598
Лекции по истории средневековой Руси

第87回 兄アレクサンドル(統治1252-1263)の若き日々

アレクサンドル・ネフスキーのイコン

 ヤロスラフ二世の次男であるアレクサンドルは、1220年にペレヤスラヴリ-ザレスキーで誕生し、た。その少年時代と青年時代をノヴゴロドで過ごした。年代記の中でアレクサンドルの名が触れられるのは、彼の父親がフィンランド南方への遠征から帰還した後、公の代理人として自分の年長の息子のフョードルとアレクサンドルをノヴゴロドに残した、1228年からである。この時、父親のヤロスラフはまだ大公位に就いていなかった。当時お決まりになっていたように、公の若君たちがまだ幼いという理由で、彼らの父親の信任を受けた貴族たちが、彼ら若君の名前によって統治していた。この年、悪天候のために不作と飢饉が予想されたノヴゴロドでは、民衆騒動が始まった。豪胆な性格のノヴゴロド人は何をしでかすか分からなく、貴族たちは厄介ごとを避けるために公の若君たちを父親のヤロスラフのもとへ連れ去った。ノヴゴロドの人々は、ヤロスラフ自身にノヴゴロドを治めてほしいと求め、ヤロスラフはその要望に初めは答えなかったが、二年後にノヴゴロドの人々の再度の招きに応じた。1230年12月に、ヤロスラフは二週間の予定でノヴゴロドへやって来、公位を受け入れ、市民らの取り決めに従って、再び息子のフョードルとアレクサンドルを自身の信任厚い貴族らと共にノヴゴロドに残し、自らはペレヤスラヴリ-ザレスキーへ戻っていった。1233年にフョードルが亡くなり、また1236年には父親のヤロスラフが兄の大公ユーリー二世の委任によりキエフを治めるために出立すると、アレクサンドルは完全に独立した公としてノヴゴロドに留まることとなった。

 1238年にタタール人の襲来によって大公ユーリー二世が戦死し、弟のヤロスラフが大公位に就いた。この襲撃はノヴゴロドにまで及ばなかったので、1239年にノヴゴロドの人々は自分たちの若い公であるアレクサンドルの結婚を祝った。アレクサンドルと、ログヴォロド一族出身のポロツク公ブリャチスラフの娘であるアレクサンドラとの婚儀は、トルジョークで行われた。妻はアレクサンドルに四人の息子――ヴァシーリー、ドミートリー(後の大公)、アンドレイ(後の大公)、ダニール――と、後にスモレンスク公コンスタンチンに嫁いだ娘のエヴドキヤを生んだ。父親が亡くなった時にまだ赤ん坊であった最年少のダニールは、分領地としてモスクワを手に入れ、ロシア史上重要な役割を果たすこととなるモスクワ公ダニール一族の祖となった。

ドイツ騎士団

 タタール人がノヴゴロドとプスコフには進軍しなかったのにもかかわらず、ノヴゴロド公アレクサンドルには落ち着いた日々がなかった。というのも、その当時ノヴゴロドを初めとする北西ルーシは、タタール以外にも三つの脅威と対峙していたからなのであった。

 次回は「北西ルーシを取り巻く三つの脅威」。乞うご期待!!

(大山・川西)



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