特定非営利活動法人 神奈川県日本ユーラシア協会

ロシア文化


中世ロシア興亡史講義 ~歴代君主の素顔とその真実~ 862-1598
Лекции по истории средневековой Руси

第108回 血にまみれたアンドレイ三世(統治1281-1283年、1293-1304年)の即位

アンドレイ三世  大公アレクサンドル・ネフスキーの三番目の息子であったアンドレイの幼年期と青年期に関して、年代記は何も伝えていない。1276年、ネフスキーの年長の息子で子供のいなかったヴァシーリーが亡くなると、その弟アンドレイはもともとの分領地であったゴロジェツに加えて、コストロマの地も有することとなった。

 ルーシの公の内誰一人として、このアンドレイのように同時代人からかくも多大な憎しみを買い、また後世の人々からはかくも多大な軽蔑を買った者はいない。彼によってルーシの幾多の諸都市がタタール人に何度も破壊され、また数万人の命が失われることとなったが、それらすべては彼自身の飽くことない権力欲を満たすためであった。アンドレイが大公位奪取への邁進のために同国人にもたらした甚大な惨禍は、バトゥ汗の襲来に匹敵するほどのものであった。

 1276年12月に大公ヴァシーリー(大公アレクサンドル・ネフスキーの弟)が亡くなると、ウラジーミル大公国はネフスキーの年長の息子ドミートリー、すなわちアンドレイの兄の手に移った。ドミートリーはその頃ヤロスラフ二世の子孫の一族の中の最年長者となっており、アンドレイには兄が手にした最高権力に異議を唱えるどんな小さな理由もなかった。

 1281年、それにもかかわらず、権力欲の強かったアンドレイは大公国の勅書を手にするためキプチャク汗国へ出発した。アンドレイは大汗に即位したばかりのトゥダ・モンケ汗と彼の高官らにたくさんの贈り物を携えて行き、たいした苦労もなくウラジーミル大公国の勅書を手に入れた。アンドレイは汗国にまだとどまっていた時に、兄が大公国を自分に譲り渡すつもりはなく、ペレヤスラヴリ-ザレスキーで軍隊を整えていることを知った。事の次第を聞き知った汗はドミートリーの不服従に激怒し、勅書に加えてアンドレイに、カヴガディとアルチェダイ率いる大規模なタタール人部隊を託した。この強力なタタール人部隊は、ムーロム近くで、三人の分領公とその従士団を味方につけた。この三人の分領公らは自分たちの土地がタタール人によって破壊されるの防ぐため、アンドレイの側に立ったのであった。恒例の如く、道中に出くわすものすべてを略奪しながら、タタール人部隊のペレヤスラヴリ-ザレスキーへの行軍は続いた。しかしながら、事態は会戦にまではいたらず、ドミートリーはウラジーミル大公国を見捨てて逃走した。

 12月19日、アンドレイの軍隊はペレヤスラヴリ-ザレスキーを容易く占領し、その後、アンドレイはすんなりとウラジーミルへ入城、新大公アンドレイ三世として即位した。翌年、ノヴゴロドの人々の招きにより、アンドレイはノヴゴロドの公位にも就いた。その間、タタール人はムーロムの地からロストフ-スーズダリの全地に散り、「すべてが略奪され、男や女子供が捕虜として連れて行かれた。町や郷、村、村落が荒廃させられ、修道院や教会は押し入って強奪され、イコンや十字架、聖なる容器も、厚いヴェールも、書物も、あらゆる装飾品が略奪された」。

キプチャク汗国の系図

 キプチャク汗国の系図

 次回は「アンドレイ三世による三度目のルーシの地の破壊」。乞うご期待!!

(大山・川西)

HOME > ロシア文化 > 中世ロシア興亡史講義 > 第108回

特定非営利活動法人 神奈川県日本ユーラシア協会
Некоммерческая организация "Общество Япония-Евразия, отделение префектуры Канагава"

〒231-0062 神奈川県横浜市中区桜木町3-9 横浜平和と労働会館5階
Tel / Fax : 045-201-3714  E-Mail : E-Mail  MAP

(c) Copyright by Specified Nonprofit Corporation Kanagawa Japan-Eurasia Society. All rights reserved.