
◆ 第129回 ドミートリー公の復讐
自分の大公位の地位がウズベク汗によって剥奪され、トヴェーリのドミートリー公へ授けられたことを知っても、ユーリーはノヴゴロドで統治を続けていた。それは汗への明らかな挑戦だったのかもしれないし、あるいは、スカンジナビアの隣人との関係が緊迫していたからかもしれない。国境を巡るその後のスウェーデンとの交渉において、ユーリーは自らを大公と呼び続けていた。彼がどのような心境でこのような振る舞いをなしていたのかは不明であるが、ユーリーは明らかに汗国へ赴くことを急いではいなかった。
1323年、ユーリーはノヴゴロドの人々と協力してスウェーデン人との戦いに上首尾に勝利し、1324年にはウスチュグのザヴォロチェへの遠征も成功裏に終えた。これはその前年に、ウスチュグ人がユグラへ行き来していたノヴゴロドの商人から強奪したことに対する報復であった。こういった軍事の他、ユーリーは、ネヴァ川の水源付近に要塞都市オレショクを建設する計画を進め、その着工にも成功した。
さて、しばらくしてユーリーは、ウスチュグからドヴィナ川とカマ川に沿って、ようやく汗国へ向かった。そこに1325年、大公ドミートリーと彼の弟アレクサンドルとが到着した。汗に対するユーリーの過失は明白であった―トヴェーリの銀の未納と、トヴェーリのドミートリーへの大公国統治引渡しに関する汗の決定への不服従である。本来ならば、ノヴゴロドでの統治者は、新大公の認可を得て任命されなければならなかった。
しかしながら、汗のウズベクは裁判の日取りを指定するのを引き延ばしていた。もしかして、ユーリーが彼の妹婿だったことが、彼の気持ちに何らかの影響を与えていたのかもしれない。だが、このような事態の引き延ばしは、大公ドミートリーを満足させなかった。ドミートリ―は、ユーリーの陰謀によって自分の父親が非業の最期を遂げたことを恨み、復讐を心に誓っていた。1325年、自分の父ミハイル二世の命日(処刑日)の前日にあたる11月21日、「ツァーリの命令なく」、ドミートリーはユーリーを殺し、「父の血の恨みを晴らした」。
ユーリー公の遺骸はモスクワに送り届けられ、しかるべき敬意を払われて聖アルハンゲル・ミハイル教会(他の史料によれば、ウスペンスキー聖堂)で葬儀が執り行われた。
次回は「若き日のドミートリ―二世」。乞うご期待!!
写真:現在のオレショクの要塞 vidonmuzon.ru/proigr/marina-alieva-i-sultan より
(文:大山・川西)
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