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ロシア文化


中世ロシア興亡史講義 ~歴代君主の素顔とその真実~ 862-1598
Лекции по истории средневековой Руси

第48回 血塗られた果てしなき戦い

ゲイザ二世

 ユーリーによってキエフ大公位から引きずりおろされたイジャスラフ二世は、ウラジーミル・ヴォルィンスキーに自分の本陣を置き、親族に援軍を求める使者を送った。ハンガリー王ゲイザ二世やポーランドのミェシュコ三世、ボヘミア王ウラジスラフ二世にである。イジャスラフ二世の妹エウフロシニヤはゲイザ二世に嫁いでおり、さらに彼の娘エウドクシアは、ミェシュコ三世の二番目の妻となっていた。また、ボヘミア王ウラジスラフ二世は、キエフ大公スヴャトポルク二世の娘ズピスワヴァの息子であり、リューリック王家の血筋を引いていたのである。

ミェシュコ三世

 イジャスラフ二世は、ハンガリーやポーランドとの血縁関係を強化し、南西ルーシと呼ばれるべき地域を作り出した。彼の子孫は、ルーシの最西部にあるガーリチ公国に根を張ることになる。現代のウクライナとなった地域が創出された基には、イジャスラフ二世の政策があったといってよい。結局、事態は軍事行動までにはいたらなかった。ヨーロッパの支配者たちがイジャスラフへの軍事援助に同意したことを知ったユーリーは、仲介者を通じてイジャスラフと交渉を始めたからである。1150年の春には双方の間で話がつき、ペレソプニッツアで和平が結ばれた。それに基づいて、ユーリーの手元にキエフは残されたものの、彼はペレヤスラヴリにおける戦利品すべてと、1147年に占領したノヴゴロドの地を返還することを誓約する羽目になった。

 あらゆることから判断して、ユーリーは、甥のイジャスラフ二世を政治舞台から追放しようともくろんでいたようである。少なくともユーリーは、和平条約の条件の一つをあえて実行しようとしなかった。先を見越して新たな軍隊を集めていたイジャスラフ二世にとっては、軍事行動を開始するきっかけができたことになる。イジャスラフ二世は手始めに、ユーリーの息子が統治していたペレソプニッツアを一気に占領し、ユーリーの息子グレープを父親のもとへさっさと立ち退かせた。そして、黒頭巾と呼ばれていた遊牧民を金銭でもって同盟者に誘い込み、まっしぐらにキエフへ進軍を開始した。これほど迅速で決断力のある行動をまったく予期していなかったユーリーは、キエフから逃走するしかなかった。

 1150年の夏、イジャスラフ二世は再びキエフ公位についたが、早くも9月にはガーリチ公ウラジーミルによってキエフから追放された。このガーリチ公は、自分の嫁の父親であるユーリーにキエフ公位を譲渡した。

 次回は「くり返される進軍と敗走」。乞うご期待!!

(大山・川西)



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