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ロシア文化


中世ロシア興亡史講義 ~歴代君主の素顔とその真実~ 862-1598
Лекции по истории средневековой Руси

第78回 ヤロスラフ二世の生い立ち(統治1238-1246)

ヤロスラフ二世

 大公ユーリー二世が、モンゴル人との戦闘で1238年に非業の最期を遂げた後、破壊され焼き尽くされたウラジーミルを治め始めたのは、年長制によってユーリー二世に続く、弟のヤロスラフであった。

 フセヴォロド三世(大巣公)の五番目の息子ヤロスラフの出生年や出生場所について、諸史料ではそれぞれ異なる記述をなしている。1190年2月8日ペレヤスラヴリ-ザレスキーにて、とあったり、1191年2月8日ウラジーミルにて、とあったり。他の日を彼の誕生日とする記述もある。

 1195年に大公フセヴォロド三世は、自分の信用する貴族らと共にヤロスラフをペレヤスラヴリ(※)の統治のために送り出した。そこでヤロスラフは1206年まで過ごし、その間に幾つかの軍事遠征に参加したが、その後チェルニーゴフ公フセヴォロドによってペレヤスラヴリから追放させられた。

 1208年にヤロスラフはリャザンへやって来たが、そこでは、その前年にフセヴォロド三世が軍隊を送り出し、そのリャザンの地の諸公を束縛して連行した事件があった(第69回参照)。ヤロスラフがリャザンに到着し、さらにフセヴォロド三世の代理人らがリャザンの地の別の町へやって来ると、リャザンの人々は公然たる抵抗に打って出た。大公はその罰としてリャザンとベルゴロドを焼き払い、息子のヤロスラフと共にウラジーミルへ去った。様々な史料はこの事件を、1208年、あるいは1209年、または1210年としている。1213年、ヤロスラフは新大公となった兄のユーリー二世から、分領地としてペレヤスラヴリ-ザレスキーを受け取った。

 1213年頃、ヤロスラフは二度目の結婚をした。1205年に彼の最初の妻となったのは、コンチャク汗の孫娘にあたる、ポロヴェツ公ユーリーの娘であった。彼らの間には子供がいなかった。ヤロスラフの二番目の妻となったのは、その頃ノヴゴロドを治めていたトロペツのムスチスラフの娘、ロスチスラヴァ-フェオドシヤであった。1216年、リピツァ川の岸辺における会戦の後、ムスチスラフは敵側陣営にいた自分の娘を連れ戻したが、まもなく再び娘はヤロスラフのもとへ戻り、これをヤロスラフの三回目の結婚と記述している史料もある。1219年末、家族に第一子フョードルが誕生し、その後アレクサンドル(ネフスキー)、アンドレイ、ミハイル、ヤロスラフ、ダニール、ヴァシーリー、コンスタンチンが生まれた。娘も二人いたが、名前が分かっているのはその内の一人、マリヤだけである。


 ※ペレヤスラヴリの名を冠した町は二つあり、双方を区別するために、キエフの東南にある方をペレヤスラヴリ、モスクワの北東にある方をペレヤスラヴリ-ザレスキーと表記する。


リューリック朝系図

リューリック朝系図


 次回は「悲しみと苦しみの中で」。乞うご期待!!

(大山・川西)



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