◆ 第109回 アンドレイ三世による三度目のルーシの地の破壊
1282年、アンドレイ三世は、兄ドミートリーがペレヤスラヴリ-ザレスキーへ戻り、町の防備を固め、軍隊を集めていることを知った。自力でドミートリーに立ち向かおうとせずに、アンドレイ三世はまたもや汗国へ赴き、そこで兄が汗の意志に従わず、貢税を支払おうとしていないことを報告した。汗の反応は予想した通りであった。翌年、反抗的なドミートリーを罰するためにタタールの部隊がルーシへ出動し、全指揮は前回と同様、アンドレイ三世が執った。当然の如く、タタール人は進軍の道すがら、ルーシの住人からあらゆるものを略奪していった。
兄のドミートリーは、今回も戦わずして一目散に逃げ出した。しかし、今度彼が向かった先は、黒海沿岸にあるノガイ汗国であった。ノガイ汗国は以前キプチャク汗国と分かれ、今やそこと敵対していた。ノガイ汗は、アンドレイが大公国の勅書を彼のライバルのキプチャク汗国から手にしたことを知り、即座にドミートリーに同じような勅書を与えることにした。この時、ノガイの軍隊はキプチャク汗国の軍隊より優っていた。このことはアンドレイもよく分かっており、それゆえ、1283年にルーシへ戻ってきた兄に、彼は何の抵抗もしないでウラジーミル大公国を明け渡し、その翌年にはノヴゴロドも譲り渡した。二年後、アンドレイはまたもや兄を打ち倒そうと試みた。アンドレイはルーシに汗国の王子とその部隊を引き連れてきたが、大公ドミートリーはタタール人をいとも容易く追い出し、アンドレイの側近貴族全員を逮捕した。
「ノガイ汗国はキプチャク汗国より強く、そしてノガイ汗はドミートリーの側についている」と認識したアンドレイは、兄に服従せざるを得なくなり、1288年から89年にはトヴェーリとの紛争で大公である兄の手助けすらした。しかし、その後の事件が示すように、アンドレイのドミートリーに対する服従はうわべだけのもので、その期間ずっとアンドレイは、兄を大公位から引きずりおろす考えを捨てていなかったのである。
1293年になると、キプチャク汗国は著しく強くなり、この好機を利用しようとアンドレイは決めた。彼は自分の味方に、ロストフやヤロスラフ、ウグリチの幾人かの諸公を引き入れることに成功し、それら新たな同盟者らと汗国へ向かった。力をつけたトフタ汗はアンドレイ三世らを迎え入れると、自分のライバルであるノガイの高慢な鼻をへし折ろうと考えた。1293年、アンドレイ三世の全指揮の下、トフタ汗の兄弟トゥダンが指揮するタタールの軍隊が、すでに三度目となるウラジーミル-スーズダリの地の破壊に取りかかった。ウラジーミル、モスクワ、ドミトロフ、ペレヤスラヴリ-ザレスキー、ユーリエフ、コロムナ、それにさらに8つの町が、小さな移住地を除いて略奪され、一部焼かれた。タタール人はトヴェーリに向かわずに、ヴォロクへ向きを転じ、ノヴゴロドから高価な贈り物を受け取ると、道々ルーシの地を蹂躙しながら汗国への帰途についた。
次回は「兄ドミートリーの死とアンドレイ三世の晩年」。乞うご期待!!
(大山・川西)
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