特定非営利活動法人 神奈川県日本ユーラシア協会

ロシア文化


中世ロシア興亡史講義 ~歴代君主の素顔とその真実~ 862-1598
Лекции по истории средневековой Руси

第130回 若き日のドミートリー二世(恐るべき眼=まなこ)(統治1322-1326年)

 1304年から、ルーシの地における支配的立場をめぐって、モスクワとトヴェーリの間で公然たる戦いが始まった。トヴェーリおよびウラジーミルの大公、ミハイル二世の長男であったドミートリーは、12歳の年齢ですでに実戦に赴き、この血生臭い戦いに積極的に関与していた。

 大公ミハイル二世は、モスクワへの二度の遠征に失敗した後、ニージニー・ノヴゴロドを占領することを企てた。その地から、オカ川流域にあるモスクワの通商路を統制することができたからである。留守の間にトヴェーリを襲撃されるかもしれないという危惧から、ミハイル二世はそこを離れる決心がつかなかったので、1311年のニージニー・ノヴゴロド遠征の際には、まだ少年であったドミートリーが、幾人かの経験ある軍司令官に補佐されながら先頭に立つこととなった。結果、ドミートリー率いる軍隊は、ウラジーミルより先には進めなかった。というのも、ウラジーミル府主教ピョートルが、何の罪もないニージニー・ノヴゴロドの人々の血を流すことを良しとせず、遠征へ赴く兵士らを祝福することを拒み、軍隊がそれより先に行くことを禁じたからであった。ドミートリーは三週間もの間ウラジーミルにとどまって「府主教ピョートルに嘆願し」、この問題について急使を介して父親と連絡を取リ合ったに違いなかったが、最終的には最高聖職者の権威に背く決心はつかず、軍隊はもと来た道を戻った。

 この時、大公ミハイル二世とノヴゴロドとの関係は不安定であった。1313年、大公は新しく汗となったウズベクに忠誠を示すため、汗国へ向かった。トヴェーリを管理するためにドミートリーが残っていたが、ノヴゴロドの人々は大公の不在を利用するつもりであった。1314年の初め、モスクワのユーリー公の助けを借りて、彼らは大公の代理人を追放し、冬が近づくとトヴェーリ公国へ進軍、ヴォルガ左岸にある幾つかの定住地を焼き払ってしまった。ドミートリーは従士団を引き連れて彼らに向かって出撃し、一ヵ月半もの間、双方はヴォルガ川を挟んでそれぞれの岸辺に駐留していた。おそらく、十代の年若い公であったドミートリーは、父の不在中にヴォルガ川を渡り大きな会戦に打って出る決心がつかなかったのであろう。まもなくして霜が降りるようになると、双方は和睦したが、それはノヴゴロド側の条件によるものであった。こうしてモスクワのユーリーはノヴゴロドの公位に就いた。

 ユーリーはその三年後に大公国の勅書を手に入れ、ウラジーミル大公ユーリー三世となり、さらにその一年後には汗国の公カヴガディと結託して、ミハイル二世に汚名を着せ、彼を非業の最期へと追いやったのである…。

   次回は「トヴェーリの銀」。乞うご期待!!

 挿絵:ミハイル二世の息子、ドミートリー(将来の大公)
 http://www.pravenc.ru/text/ より

(文:大山・川西)

HOME > ロシア文化 > 中世ロシア興亡史講義 > 第130回

特定非営利活動法人 神奈川県日本ユーラシア協会
Некоммерческая организация "Общество Япония-Евразия, отделение префектуры Канагава"

〒231-0062 神奈川県横浜市中区桜木町3-9 横浜平和と労働会館5階
Tel / Fax : 045-201-3714  E-Mail : E-Mail  MAP

(c) Copyright by Specified Nonprofit Corporation Kanagawa Japan-Eurasia Society. All rights reserved.