
◆ 第139回 イヴァン一世(カリター/統治1328-1341年)の青年期
アレクサンドル・ネフスキーの孫であり、モスクワ公ダニールの四番目の息子であったイヴァン(後のイヴァン一世)は、1320年までは年代記の中では軽く触れられているだけである。
1320年、イヴァンは、兄の大公ユーリー三世によるリャザン遠征に同行し、その同年に汗国へ赴いた。この時、汗国へ彼が赴いたのは、兄から何らかの任務を依頼されていたと思われる。その後しばらくして、ユーリー三世とトヴェーリの諸公との間に衝突が起こった。トヴェーリの諸公が定められた秩序を守らずに、自分たちの借金を大公を介さずに直接汗国に支払おうとしていたことがその原因であった。この衝突が長引いたので、イヴァンは兄ユーリー三世から彼の代表者として汗国に留まるよう指示を受けていたのかもしれない。モスクワとトヴェーリとの対立はすでに以前から続いていたのであるが、ユーリー三世にとって、諸公間の関係が緊迫化したときに汗国に信頼する者が常駐していることは好都合だったのである。
事件のあらましは次のようであった。大公ユーリー三世は、トヴェーリの諸公が最終的に彼に預けたところの汗国への借金2000ルーブリの銀を、自ら汗国にも運ばず、汗の使者に引き渡すこともしなかった。こういった振る舞いに対しては、汗は往々にして厳しく処していた。ユーリー三世に対する汗の厳罰を期待して、トヴェーリ公ドミートリーは1322年の春に、ユーリー三世による銀の着服を報告しに汗国を来訪した。ドミートリーの報告は現状と一致しており、汗国に在中していたイヴァンは兄を守る術がなかった。トヴェーリの人々は借金をすでに一年前に返済していたが、お金は汗国へ届かず、大公ユーリー三世の姿が汗国に現れることもなかった。ウズベク汗はこうしたことの背景には興味がなかった。それに加え、トヴェーリ公ドミートリーは相応の贈り物を携えて直訴してきた。ユーリー三世を捕えるために、即座に汗の使者アフムィラが出立し、彼はユーリーが従わなかった時に備えて大軍を引き連れていた。彼らと共に、汗国からイヴァンも出発した。その道中、すでに恒例となっていた略奪にタタール人は取りかかった。タタール人が略奪の対象地としたのは今回ヤロスラヴリで、その地の一部を彼らは焼き払ってしまった。確かな証拠はないが、イヴァンが意図してタタール人をヤロスラヴリへいざなったのかもしれない。結局、この時は大公ユーリー三世が汗国に姿を現わすことはなかった。
1322年の秋、ウズベク汗はウラジーミル大公国の勅書をトヴェーリ公ドミートリーに渡し、その三年後の1325年11月21日、新大公ドミートリーは自分の父親の復讐を果たすために、遅ればせながら汗の裁きを受けに汗国へやって来たユーリーを殺害した。
次回は「イヴァンによるモスクワ公国の発展」。乞うご期待!!
挿絵:イヴァン一世(カリター)ru.wikipedia.org/wiki/
(文:大山・川西)
HOME > ロシア文化 > 中世ロシア興亡史講義 > 第139回
|