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ロシア文化


中世ロシア興亡史講義 ~歴代君主の素顔とその真実~ 862-1598
Лекции по истории средневековой Руси

第150回 イヴァン二世もペストに倒れる

 イヴァン二世は、その生涯において二度結婚した。ブリャンスク公ドミートリーの娘であるフェドーシヤとは1341年に結婚したが、一年と少し経った頃、子供を持たないまま彼女は死去した。イヴァン二世の二番目の妻については、年代記にはアレクサンドラという名前しか記されていない。アレクサンドラとの婚礼は1345年に執り行われ、その五年後には第一子が誕生、この結婚でイヴァン二世は四人の子を得た。すなわち、ドミートリー(後の大公)、イヴァン、長女(名前は不明)、それに次女マリヤである。

 「正教への信仰厚く敬虔で、柔和で物静かであり、寛容である」――このように年代記作者たちは、イヴァン二世を特徴づけた。この性格の故に、彼は「柔和な」というあだ名を民衆の中で得た。しかし、歴史文献上で最もよく知られているイヴァン二世のあだ名は、「クラースヌィ(赤い)」である。当時「クラースヌィ」は、「クラシーヴィ(美しい)」や「プレクラースヌィ(非常に美しい)」と同じ意味で用いられていたが、年代記作者らはイヴァン二世の風貌を書き残しておらず、このあだ名の意味するところは定かではない。

 イヴァン二世がその統治において父親のやり方を踏襲できたのは、汗国との関係のみであった。イヴァン二世が大公国勅書を得てからすぐに、ルーシの諸土地では諸公間のいがみ合いが始まった。ノヴゴロドがイヴァン二世の権力を認めたのは彼が勅書を得た半年後、さらにリャザンとスーズダリにおいては一年後であった。トヴェーリ公国とムーロムでは諸公間の係争、内乱が絶え間なく起きていた。

 1357年、空位になっているトヴェーリ公位を要求するトヴェーリとホルムスクの公が、イヴァン二世へ訴えてきた。こういった事柄はひとえに大公の権限に関わっていたが、イヴァン二世は彼らの係争を解決することができず、公位要求者たちは国内の分領地問題に決着をつけるために汗国へ向かった。

 1359年11月の初旬、大公イヴァン二世に肺ペストの兆候が現れた。自分の父と兄に倣って大公は遺言状を書き、領地の大部分を長男のドミートリーに残した。11月13日、イヴァン二世は死去した。彼の遺体は、アルハンゲル・ミハイル教会(その頃にはすでにアルハンゲリスキー大聖堂とも呼ばれていた)に埋葬された。

 次回は「スーズダリのドミートリ―、大公となる」。乞うご期待!!

挿絵:現在のアルハンゲリスキー大聖堂
Википедия, Архангельский собор (Москва) より

(文:大山・川西)

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