◆ 第49回 くり返される進軍と敗走
またもやキエフから追放されたとはいえ、イジャスラフ二世は不屈の精神を有していた。今度は彼の弟のウラジーミル、息子のムスチスラフ、グロドノ公ボリスらが軍隊を率いて加勢しに来た。ハンガリー王ゲイザ二世は、一万の騎兵部隊を提供した。ハンガリー人の不断の敵でもあるガーリチ公ウラジーミルが、ハンガリー軍を追撃し始めたにもかかわらず、イジャスラフ二世を中心とする連合軍は追跡から逃れ、即座にベルゴロドを占領した。そこを統治していたユーリーの息子グレープは父親に警告するだけで精一杯であり、防衛するための軍隊を組織する時間はすでになかった。ユーリーは再びキエフから逃走することとなった。
1151年3月初めにイジャスラフ二世はキエフへ入城したが、彼は宿敵であるユーリーよりも一族において年少であることが、法的な立場からみて最も攻撃されやすい点であった。イジャスラフ二世は、以前にフセヴォロド二世に自ら大公位を譲った(第42回参照)叔父のヴャチェスラフをキエフに招いた。このヴャチェスラフと分権することを公に宣言したイジャスラフは、大公宮殿をヴャチェスラフに譲り、自身は町の低地に住むことで民衆の賛同を呼び起こした。ヴャチェスラフは異母兄弟のユーリーよりおよそ15歳ほど年上であり、彼は今や共同統治者となったのである。しかしながら、それでもユーリーのキエフ公位要求をとどめることはできなかった。
その頃、ゲイザ二世とギリシア皇帝との間に問題が生じたために、ハンガリー騎兵部隊は帰国しなければならなくなった。しかし、その代わりにイジャスラフ二世は、ユーリーに好意を寄せていない南ルーシ諸公の支援を期待することができた。1151年4月末、ユーリーと彼の息子らの先頭部隊はキエフ近くに姿を現し、大公イジャスラフ二世の連合軍がそれを出迎えた。イジャスラフ二世はルト湖付近で決戦を強い、敵を完膚なきまでに粉砕した。ユーリーと息子たちはペレヤスラヴリへ逃れた。
イジャスラフ二世はすでに7月の半ばにはペレヤスラヴリを包囲し、そこからユーリーを追放した。そして翌1152年の春には、ユーリーの南ルーシでの最後の拠点であったゴロジェツ-オステルスキーの地を占領し、廃墟にした。
この年の夏、ユーリーと彼の息子たちはリャザン公とムーロム公とを同盟者に招き、ポロヴェツ人を雇って再び南方へ進軍した。彼はチェルニーゴフ公国へ向かったが、そこの支配者たちはルト湖付近の戦闘の後、そのすべてがイジャスラフ二世の同盟者となっていた。折りよく密告を受けていたイジャスラフ二世は、チェルニーゴフの防備をしっかりと固めることができた。ほぼ二週間、ユーリーは包囲した町を強襲したが何の効果もなく、冬が到来する直前にスーズダリへ戻らざるをえなかった。
イジャスラフ二世の最初の妻は1152年に亡くなり、1154年に彼はグルジアの皇女と再婚した。しかし、その年に彼は病みつき、11月にキエフで永眠した。
次回は「スーズダリ公ユーリー」。乞うご期待!!
(大山・川西)
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