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ロシア文化


中世ロシア興亡史講義 ~歴代君主の素顔とその真実~ 862-1598
Лекции по истории средневековой Руси

第79回 悲しみと苦しみの中で

 1214年にトロペツのムスチスラフが自分の意志でノヴゴロドから南ルーシに去ると、ノヴゴロドの人々は統治者としてヤロスラフを招いた。だが、両者の関係がうまくいかず、早くも翌年にはヤロスラフはノヴゴロドから立ち去らねばならなくなった。若い頃、残酷で野心家であったヤロスラフはその激しい気性のために、自由を愛するノヴゴロドの人々を満足させることができなかったのである。ノヴゴロドの人々は幾度か公を追放したが、その度に彼を呼び戻すこととなった。というのも、彼の倦むことのないエネルギーは、外敵との戦いにこの上もなく好都合であったからである。

 ヤロスラフは1222年に、再度ノヴゴロドの公位に就いた。なぜならば、彼の兄の大公ユーリー二世の息子フセヴォロドが当地を治めていたのであるが、ノヴゴロドの人々と折り合うことができず、ひそかに町から立ち去ったからである。ユーリー二世がノヴゴロドの統治を兄弟たちの裁量に委ねると、ノヴゴロドの住民はヤロスラフを再び招いた。ヤロスラフは統治を二年間持ちこたえたが、また追放され、そしてしばらく後、再度呼び戻された。1225年から28年にかけて、ヤロスラフは自分の従士団とノヴゴロドの義勇兵を引き連れて、リトアニア人からノヴゴロドの地を守り、フィンランドの南に遠征し、チェルニーゴフ公フセヴォロドの息子ミハイルと共に過酷な戦いに耐え抜いた。このミハイルは、ノヴゴロドの公位に就くことを欲していた。1230年になると、ヤロスラフはようやくノヴゴロドの住民と良好な関係を築けるようになり、最終的にノヴゴロドに落ち着いた。だが、しばらくするとノヴゴロド統治のために、自身の年長の息子であるフョードルとアレクサンドルを側近の貴族らと共に残して、ヤロスラフはペレヤスラヴリ-ザレスキーへ戻った。1236年から1238年にかけて、ヤロスラフは大公ユーリー二世の委任により、キエフを治めた。

モンゴル軍の侵入

 1237年からモンゴル軍がルーシの地に侵入し、次々と町を陥落し、大公ユーリー二世は戦場で非業の死を遂げた。1238年、その弟のヤロスラフがウラジーミルにおいて大公位に就き、ヤロスラフ二世となると、彼がまず着手したのは、虐殺された死体であふれ返った町をきれいにすることであった。通りばかりでなく、中庭、住居、さらには聖堂の内にも死体があふれていた。バトゥ汗の大軍が破壊と殺戮の限りを尽くして、ルーシの地を蹂躙していったのである。リャザン、モスクワ、ウラジーミル、スーズダリ、トヴェーリ、ペレヤスラヴリ-ザレスキー、チェルニーゴフ、キエフ、ヴォルィニ、ガーリチ、ベルゴロド、ユーリエフ、その他の諸都市と多くの居住地がすっかり略奪され、廃墟の中に取り残されていた。数万の住民が捕虜として追い立てられていった。ヤロスラフ二世の前にも、民衆の前にも同じ課題があった――それは、ルーシの地の復興であった。

 次回は「ヤロスラフ二世、汗国へ」。乞うご期待!!

(大山・川西)



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