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ロシア文化


中世ロシア興亡史講義 ~歴代君主の素顔とその真実~ 862-1598
Лекции по истории средневековой Руси

第89回 氷上の戦い

氷上の戦い  1241年の4月、ノヴゴロドの地を目指してリヴォニアのドイツ人、チュージ人、リトアニア人が動き出した。ノヴゴロドの人々は軍事的援助を請うために、アレクサンドルの父親であった大公ヤロスラフ二世のもとへ急いで向かった。大公はノヴゴロドの人々のもとへ息子のアンドレイを差し向けたが、おそらくアンドレイは期待には応えられなかったのだろう。ノヴゴロドの人々は、アレクサンドル・ネフスキー(以下ネフスキーと呼ぶ)を自分たちのもとへ差し向けるよう嘆願しに再び大公のところへ出向き、他方、ペレヤスラヴリ-ザレスキーのネフスキーのもとへは、主教スピリドンを長とする市民の代表団が向かった。その間にも、ドイツ人とその同盟者たちはルガなどを占領し、コポリエに堡塁を築き、そこから周辺地域に襲撃を行い、ノヴゴロドまで30露里のところに迫った。

 同年、ノヴゴロドの人々が喜んだことに、ネフスキーが同地へ到着し、ノヴゴロド公として迎えることになった。ネフスキーは、ラドガ、ノヴゴロド、イジョーラ、カレリアの人々から成る連合軍隊を主導した。ドイツ人は町からかなりの距離のところまで追い立てられ、多くの騎士が捕虜となり、絞首刑に処された。役割を果たしたネフスキーは、自領のペレヤスラヴリ-ザレスキーへ戻った。

氷上の戦い  ところが、撃退したはずのドイツ人は再び同年の1241年に姿を現し、ノヴゴロド近くで反撃を受けるも、プスコフを占領してしまった。驚いたネフスキーは、弟アンドレイと彼の従士団に助けを求め、すぐさまノヴゴロドに戻り、再び集結した軍隊を率いてプスコフへ出動し、同地を解放した。町からドイツ人を駆逐し、なおかつ彼らを追跡しながら、ルーシ軍は敵地リヴォニアへと入っていった。そこで、ルーシ軍の先頭部隊が撃退されると、ネフスキーは会戦に適した場所を探すために退却の号令をかけた。彼はチュド湖付近に陣を張り、1242年4月5日、このチュド湖で有名な氷上の戦いが行われた。ネフスキーはまだ氷結していた湖に敵を誘いこみ、湖上で決戦がなされた。当時、ドイツ騎士団は主に台形の隊形を取り、中央先頭に精鋭騎士を配置していた。それに対してネフスキーは、左右に強力な射手を配置し、両翼から敵を包囲する形で勝利を収めた。その結果、およそ400人の騎士が命を落とし(別の史料によれば500人)、およそ50人が捕虜として捕まった。十字架と聖幡を掲げ歓喜したネフスキーの軍隊は、プスコフで厳かに迎えられ、およそ一週間祝宴が催された。その数ヵ月後、リヴォニアのドイツ人と平和条約が結ばれた。同年の1242年、ネフスキーは、この好機にノヴゴロド領内でうまい汁を吸おうとしていたリトアニア人にも、十分な損害を与え、その後、その地を後にした。

次回は「ネフスキーの父の死」。
乞うご期待!!

(大山・川西)



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