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ロシア文化


中世ロシア興亡史講義 ~歴代君主の素顔とその真実~ 862-1598
Лекции по истории средневековой Руси

第110回 兄ドミートリーの死とアンドレイ三世の晩年

モスクワ公ダニール  タタールの軍隊を率いて再びウラジーミル-スーズダリの地を破壊し始めた弟アンドレイにおののいた兄の大公ドミートリーは、前回と同様、弟の前から逃亡した。タタール人が各地の略奪品に目を奪われている間、トヴェーリの地に滞在していたドミートリーは地元の主教を通じてアンドレイと交渉に入った。この時すでにノヴゴロドの人々はアンドレイを自分たちの公と認めていた。兄弟双方の交渉時において、アンドレイの方が自分に有利な諸条件を押しつけたことは明らかである。ドミートリーはウラジーミル大公国から得られる自分の収入源を放棄し、その代わりにただ自分の世襲領地であるペレヤスラヴリ-ザレスキーを受け取っただけであった。こうして再びアンドレイはウラジーミル大公位に就いた(1293年)。

 翌1294年、トヴェーリからペレヤスラヴリ-ザレスキーへ向かう旅路の途中でドミートリーは死去し、アンドレイは今や一族の最年長者の権利に基づいて大公位にとどまった。この年、彼はヴァシリーサと結婚した。彼女は、その頃亡くなったロストフ公ドミートリーの娘であった。そしてその翌年、アンドレイは妻と共に汗国へ赴いたが、それは汗に諸々の出来事を報告し、汗の支持をあらかじめ得るためであった。しばらくして、大公アンドレイは三人の息子――ユーリー、ミハイル、ボリス――の父親となった。ドミートリーと同じくアンドレイも、ウラジーミルには大公国の仕事のためにたまに立ち寄る程度であって、普段の彼の居住地は世襲領地のゴロジェツであった。

スヒマ修道士  アンドレイの晩年には大規模な軍事衝突はなかったとはいえ、彼はペレヤスラヴリ-ザレスキーを攻略しようとしていた。しかしながら、この頃までにアンドレイの目の上のたんこぶとなっていたのは、ペレヤスラヴリ-ザレスキーではなく、タタール人の荒らされなかったために著しく力を強めていたトヴェーリであった。トヴェーリのミハイル公は、アンドレイの弟であるモスクワのダニール公、そして、ペレヤスラヴリ-ザレスキーのイヴァン公と同盟を結んだ。この同盟者らはノヴゴロドの人々とも相互の援助関係を築き上げており、このことからアンドレイも彼らを無下にすることができなかった。

 1301年、大公は自分の従士団とノヴゴロドの人々を引き連れて、オフタ川河口にあるスウェーデンの要塞を叩き壊し、焼き払った。

 1304年の夏、大公アンドレイ三世は逝去した。諸史料は、彼がスヒマ修道士として亡くなったと伝えているが、公がいつスヒマとなったのかは不明である。おそらく、晩年にアンドレイを苦しめたのは、彼がルーシの地にもたらしたあらゆる惨禍に対する良心の念であったのだろう。公はゴロジェツの聖ミハイル教会に埋葬された。

 次回は「ミハイル、トヴェーリ公となる」。乞うご期待!!

(大山・川西)

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