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ロシア文化


中世ロシア興亡史講義 ~歴代君主の素顔とその真実~ 862-1598
Лекции по истории средневековой Руси

第140回 イヴァンによるモスクワ公国の発展

 ドミートリー二世によって汗国で殺されたユーリー三世には後継者となる息子がおらず、その弟ボリスも子を持たないまますでに亡くなっていた。そのため、末の弟であったイヴァンは、ユーリー三世死後、モスクワ公国内の全権力を手中に握る、分領公国の統治者となった。とはいえ、彼の領土は決して大きくはなかった。50ばかりの小さな村や郷、40ほどの宮廷村落、幾つかの都市が彼の領土であったのであり、それはすなわち、モスクワ、コロムナ、モジャイスク、セルプーホフ、ルーザ、ズヴェニゴロド、ラドネジ、ペレヤスラヴリ-ザレスキーなどであった。

 イヴァンは汗国に滞在した二年の間、汗の高官たちと有益かつ友好的な関係を築き、汗の使者の進軍ルートがモスクワ公国を迂回するよう常に働きかけ、タタール兵らの略奪と強盗に見舞われないよう自国を守った。その結果、タタール兵の襲撃に常に晒され続けた近隣の土地からは、貴族たち、自由民、洗礼を受けてルーシの軍務に就いている外国人やタタール人さえもが、平和と安らぎを求めてモスクワ公国へやって来た。このような状況になると、近隣諸公の力は弱まっていく一方で、モスクワ公国は拡大していき、強国となっていった。モスクワのクレムリン外側の商工地区は頑丈なカシの木で作られた城壁で囲まれており、その城壁の向こうには城塞都市(14-17世紀にモスクワ公国の辺境にあった)が広がっていた。さらにその先には、町に食料を供給する新旧の村々があった。(後の1339年、イヴァンはクレムリンを新しいカシの木で改築した)

 1320年代にイヴァンは、ルーシの教会の長である府主教ピョートルと親しくなっていき、ピョートルは自分の管轄区域を訪れる際にモスクワへ立ち寄るようになっていった。1325年8月、彼らは共に、モスクワで最初の石造の教会である生神女就寝教会(後のウスペンスキー大聖堂)を起工し、その翌年には献堂式が行われた。1333年、木造の教会が取り壊され、そこにイヴァンによって礎が定められ、急テンポで石造のアルハンゲル・ミハイル教会(後のアルハンゲリスキー大聖堂)が建てられた。彼はそこに自分を埋葬するよう遺言した。その後、彼のすべての子孫がそこで永い眠りに就くことになる。

 1326年に府主教ピョートルが逝去すると、彼の跡を継いだのはフェオグノストであった。フェオグノストは最初、府主教座が置かれた北東ルーシのウラジーミルにいたが、イヴァン公の招きによりウラジーミルからモスクワへ移住し、それと同時に、府主教座もモスクワへ移した。これにより、その後モスクワは歴代府主教の座所としても確立していくこととなる。

 次回は「イヴァン、破壊と略奪から国を守る」。乞うご期待!!

挿絵:イヴァン公と府主教ピョートル
deduhova.ru/statesman/ivan-i-danilovich-kalita/

(文:大山・川西)

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