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ロシア文化


中世ロシア興亡史講義 ~歴代君主の素顔とその真実~ 862-1598
Лекции по истории средневековой Руси

第50回 スーズダリ公ユーリー(統治1155-1157年)

 ユーリーは、元大公ウラジーミル・モノマフの二度目の結婚でできた、最初の子であった。歴史文献では、推測ながら1090年という年が出ているとはいえ、ユーリーの誕生年も日付も実は定かではない。とはいえ、ユーリーの実の弟であるロマンとアンドレイ、そしてモノマフの最初の結婚でできた五番目の息子ヴャチェスラフの誕生年から比較考察すると、かなりの信憑性をもって、ユーリーは1096年から1100年の間に生まれたと推察することが可能である。

 年代記の中でユーリーのことが初めて言及されているのは、彼の結婚の時である。当時ルーシは、ドニエプル川流域とドン川に陣取るポロヴェツ軍と緊迫した状態にあった。しかし、ルーシ諸公と幾つかの遊牧民族とは完全な忠誠、あるいは同盟関係までもが確立されており、それは彼らの子供らが互いに結ばれることによってさらに強固なものとなった。ユーリーの最初の結婚は、まさにこのような類のものであった。1108年1月、ウラジーミル・モノマフは息子ユーリーを、友好的なポロヴェツの汗であるアエパ・オセネヴィチの娘と結婚させた。

 1117年、ユーリーは妻を連れてロストフの地にあるスーズダリの町へ出立した。そこは、晴れて大公となったモノマフが、息子ユーリーに統治する地として割り当てた場所であった。その当時、ロストフ公国はルーシの遠い外れにあり、その主要な町――ロストフやスーズダリ、ヤロスラヴリ、ウラジーミル――は、キエフか、あるいはペレヤスラヴリを治める公の親族または代理人が統治していたのである。

 1125年にウラジーミル・モノマフが亡くなると、息子たちの状況は一変した。息子たちに独断で町や土地を割り当てていた大公たる父親の一家臣から、彼らは、自身が治める公国の独立した統治者となった。彼らは、自分たちの長兄である大公ムスチスラフには、純粋に形だけ服従したにすぎなかった。スーズダリには、この地で最初に独立した公となったユーリーの公邸があったので、ロストフの地は独立したスーズダリ公国となった。

 歴史文献の中でユーリーの名が再び言及されているのは、1120年のヴォルガ-ボルガルへの遠征があった時であり、ボルガル人がヴォルガ川に沿ってカスピ海へ向かうルーシ商人の道を閉ざそうと試みていた時であった。これはおそらく、ウラジーミル・モノマフの指示による、幾人かのルーシ諸公の合同遠征だったにちがいない。ボルガル人の軍隊は撃破された。ヴォルガ川沿いの道は封鎖を解かれ、多くの捕虜と戦利品が手に入れられた。ユーリーが南ルーシを獲得するために戦いを開始した30年代初めまで、彼は自分の領地の整備に積極的に取り組んだ。新しい諸都市と移住地が築かれ、教会と修道院が建てられ、鬱蒼たる森に道が拓かれ、スーズダリ公国の国境が広げられ、強化された。

 次回は「ユーリーと息子たち」。乞うご期待!!

(大山・川西)



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