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ロシア文化


中世ロシア興亡史講義 ~歴代君主の素顔とその真実~ 862-1598
Лекции по истории средневековой Руси

第80回 「タタールのくびき」をかけられたルーシ

 1238年、ヤロスラフ二世が大公位に就いた後、彼は弟のスヴャトスラフに分領地としてスーズダリを、弟のイワンにはスタロドゥプを与えた。翌1239年、モンゴル人との戦いで非業の最期を遂げた兄の大公ユーリー二世の亡骸を、ロストフからウラジーミルに移した。

 1239年、バトゥ汗の大軍が再びルーシの地に侵入した。またもや、ゴロホヴェツ、ムーロム、グルホフ、そしてチェルニーゴフが、さらにペレヤスラヴリが略奪されて焼かれ、翌年の秋にはキエフが篭城して抵抗するも同じ道をたどった。1241年、バトゥの軍隊はモルダヴィア、ハンガリー、ポーランド、チェコへ進軍していき、ルーシはようやく一息つくことができた。

 モンゴル軍による破壊の凄まじさは、カラコルム(モンゴル帝国の首都)へ向かう際にキエフを通過(1246~1247年)した、ローマ教皇使徒プラノ・カルピニのジョヴァンニが残した記述からも分かる。彼がキエフを訪れたのはキエフの陥落後6年を経てからであったが、彼は残っている人家は200戸に過ぎないと述べ、「死者の数え切れぬ髑髏と骨」を観察し、キエフの住人は「まるで我らがよみがえった死者であるかのように」出迎えてくれた、と書き記している。

バトゥ汗

 1242年、バトゥの軍隊はヨーロッパの多くの国々を荒廃させた後、ヴォルガ川下流のステップへ戻っていった。バトゥは、カスピ海から数日の行程のところにあるヴォルガ川沿岸に自らの本営サライ・バトゥを置き、広大な国家ザラターヤ・オルダー(キプチャク汗国)の首都とした。キプチャク(金帳)汗国と呼ばれたのは、汗の幕営が金の錦紗で飾られていたからである。このキプチャク汗国の領土は、イルトゥイシ川からドナウ川まで、北海からカフカースまで広がっていた。汗国の汗たちは、征服した土地では直接統治問題には携わらなかった。統治者である大公と分領公たちは以前のまま据え置かれたが、彼らは今や、汗国で汗の勅書を得なければ、自らの地で完全な権利をもって治めることができなかった。多かれ少なかれすべての大きな町には、モンゴルの小分隊を連れた汗国の正式な代理人らがいた。彼らは統治問題には干渉しなかったが、汗国へ送られる貢物の遅れのなさと洩れのなさを厳しくチェックしていた。大公から平民までルーシの住民は、汗国の臣下、あるいは納貢者となり、“タタールのくびき”と呼ばれる屈辱的な従属関係に置かれた。これはおよそ二世紀半もの間続くこととなる。なお、“タタール”とは、モンゴル人に限らず、トルコ系民族をも含めて、キプチャク汗国の住民を指した。

 次回は「ヤロスラフ二世、汗国へ」。乞うご期待!!

(大山・川西)



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