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ロシア文化


中世ロシア興亡史講義 ~歴代君主の素顔とその真実~ 862-1598
Лекции по истории средневековой Руси

第90回 汗国からの呼び出し

キプチャク汗国発行の大公国勅書  ネフスキーは合計して少なくとも12回の大規模な会戦を行い、必ず勝利を収め、しばしば独創的な行動によって敵を窮地に追い込んだ。例えば、すでに大公になっていた1256年、彼はノヴゴロドとスーズダリの人々を引き連れて、辛く苦しい隠密の行軍を成し遂げ、スウェーデンの権力下にあったフィンランドのある地方全域を一気に占領することに成功した。公の軍事行動は常にあまりにも成功裏に終わったので、年代記作者の言葉によれば、モンゴルの女性が彼の名前を使って自分の子供たちを脅かすほどであった。

 とはいえ、ルーシの領土の四分の三はいまだ廃墟の中にあった。たとえ、破壊を免れて無事に残っている町があったとしても、その町が今後タタール人の部隊の襲撃に遭わない保証はなかった。殲滅した後に住民を捕虜として連れ去った汗たちは、敗北者らを相手にいかなる条約も結ぼうとせず、再度襲撃はしないといういかなる保証も与えはしなかった。ルーシ人の抵抗の火種は無慈悲にも残酷な形でもみ消され、反抗の意を示したルーシ諸公は毒をもって皆殺しにされるか、あるいは他の者への見せしめとして公開処刑に処された。汗国の力があまりに大きかったので、何らかの抵抗の手段を真剣に考えることは不可能であった。同時に、タタール人は従順な者に対してはかなり寛大であり、彼らにとって都合の良い諸公には公国統治の勅書を与え、それにより彼らの領土を侵略しないことをある程度保証した。選択肢はなかった。ルーシ諸公は勅書を手に入れるために、汗国への悲しくも辛い旅をなしていったのである。

アレクサンドル・ネフスキー  父親であった大公ヤロスラフ二世の死後まもなくして、汗国訪問を要求するタタールの使者が到着した時も、ネフスキーには選択の余地がなかった。父親が1246年にモンゴルにある汗の大本営から帰還する途中で死去したことに関して、ネフスキーはおそらく、父親がゆっくりと効く毒によって殺されたと推測できる有力な根拠を握っていたのであろう。カラコルムにいる大汗への呼び出しは、目下のところ汗国の支配下にないノヴゴロド公であるネフスキーにとって、公国統治、ことによったら大公国統治のための勅書に関わる諸問題を解決することを意味し得た。しかし、彼は自分の内に恐怖を抱いていた。まだ、父親の死が記憶に新しかったからである。呼び出しの理由についてはただ大汗の本営でしか知ることができず、大汗は、後年の歴史学者の大部分がそうみなしているように、ウラジーミル大公国の大公にネフスキーを据えるつもりだった。ネフスキーはその頃までには才能ある司令官としての名声を得ていたが、しかし大汗と彼の側近をひきつけたのはおそらく、彼の軍人としての才能ではなく、統治における彼の慎重さであったのだろう。

 次回は「ネフスキーの大公位への執念」。乞うご期待!!

(大山・川西)



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