497年、貴族会議と府主教の完全な同意を得てイヴァン三世が大公位継承者として正式に孫のドミートリーを指名し、その上戴冠式まで行われることが…続きを読む
イヴァン三世が自らを「ツァーリ」と名乗るようになると、それは彼の性格にも影響を与えずにはいられなかった。というのも…続きを読む
モスクワ大公国が独立した力強い君主国家になったにもかかわらず、イヴァン三世の公式の称号は以前通り、「大公」のままであった。…続きを読む
言うまでもなく、ノヴゴロドの自由民の凋落、そしてタタールのくびきからの解放は、画期的な出来事であった。しかしながら…続きを読む
すでに9年間も貢税を汗国に納めていなかったイヴァン三世との和平案を承諾せず、ウグラ川を挟んでイヴァン三世の軍隊と対峙していたアフマト汗の軍に…続きを読む
イヴァン三世の統治機関、ルーシの歴史においてさらにもう一つ終止符が打たれたものがあった。事の成り行きは…続きを読む
1477年11月にモスクワの軍隊に包囲されたノヴゴロドは、イヴァン三世との交渉を試み、双方の話し合いは翌年の1月まで続いた。…続きを読む
ノヴゴロドのスラヴェンスキー地区住民による訴えが、地元の領主評議会や民会を飛び越えてイヴァン三世のところに持ち込まれ…続きを読む
イヴァン三世に対するソフィヤの影響力というものはもちろんあったが、国務に関して言えば間接的な影響しか及ぼさなかった。…続きを読む
1472年9月21日、ゾーヤ・パレオロギナは海路でレーヴェリ(現在のエストニア共和国の首都タリン。フィンランド湾に面する)へ到着した。…続きを読む